古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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母校の学園祭へゆく ― 2012年11月04日 00:03
プロ野球日本シリーズは巨人が日本一を決めました。野球などどうでも良いのですが、何よりめでたい事に明日TBSラジオで「ラジオ寄席」が放送されます。ここをクリック→ラジオ寄席のページへリンク。三代目金馬師匠の「居酒屋」と「八五郎出世」とのこと。「居酒屋」は先代金馬師の放送になる度にかかっているような気がします。また大幅にカットして放送時間に納まるように尺を調整するのでしょうか。「八五郎出世(妾馬)」のTBS音源は過去にレコード発売されたもののCD化されていません。持っていない方は必聴です。
さて、今日は夜、とある落語家さんの落語会へゆくことになっていたのですが、せっかく交通費を使って東京へ出るなら他にもどこかへ寄ってみたい。最近は国会図書館へ行って私のもう一つの趣味である地図あさりをするパターンが多かったのですが本日は祝日で休館日。あれこれ考えてみて、我が母校である大学の学園祭へ行くことにしました。大学となるとゼミやクラスの同窓生と後々まで連絡を取り合ってネットワークを造り実社会での横の連携に役立てしたりするものですが、私はそういうことには頓着しない質なので、あの頃の仲間たちが今、どこでどうしているか全く知りません。当時、大学生と言ってもバイトがメインの生活で、といって別に実家が金に困っている訳でもなく、映画、寄席、旅行など娯楽に時間と金を消費している日々でした。そういう訳で大学への愛着というものもまるでなく、この20年ほど立ち寄った事もありませんでした。そしてたまたま、毎年「文化の日」前後は学園祭のあったなと思いだし、本当に久しぶりに行ってみようかな、という気になった次第です。
都心から電車に乗って30分ほど、最寄の駅へ降り立ちます。すっかり装いも変わったこの駅で降りるのもおよそ20年ぶりです。大学の学園祭と町のお祭りが同時に行われるというのがずっと以前からの恒例で今年も大層な賑いでした。
学園祭のプログラムリストを見ますが、私が在校していた頃はあった「落語研究会」の名がありません。後でネットで検索してみましたがやはり全くヒットしません。無くなってしまったのでしょうか。テレビやラジオでも落語の放送は数えられるほどしかない今の時代、18歳やそこらの若者が落語に興味を持つきっかけがそうそうあるとは思えません。人材が集まらず潰れてしまった可能性が高いのでしょう。
私が落語趣味に走るきっかけはこの大学にありました。長くなりましので、また機会をみてどのようにして落語に興味を持つようになったのか記そうと思います。
さて、今日は夜、とある落語家さんの落語会へゆくことになっていたのですが、せっかく交通費を使って東京へ出るなら他にもどこかへ寄ってみたい。最近は国会図書館へ行って私のもう一つの趣味である地図あさりをするパターンが多かったのですが本日は祝日で休館日。あれこれ考えてみて、我が母校である大学の学園祭へ行くことにしました。大学となるとゼミやクラスの同窓生と後々まで連絡を取り合ってネットワークを造り実社会での横の連携に役立てしたりするものですが、私はそういうことには頓着しない質なので、あの頃の仲間たちが今、どこでどうしているか全く知りません。当時、大学生と言ってもバイトがメインの生活で、といって別に実家が金に困っている訳でもなく、映画、寄席、旅行など娯楽に時間と金を消費している日々でした。そういう訳で大学への愛着というものもまるでなく、この20年ほど立ち寄った事もありませんでした。そしてたまたま、毎年「文化の日」前後は学園祭のあったなと思いだし、本当に久しぶりに行ってみようかな、という気になった次第です。
都心から電車に乗って30分ほど、最寄の駅へ降り立ちます。すっかり装いも変わったこの駅で降りるのもおよそ20年ぶりです。大学の学園祭と町のお祭りが同時に行われるというのがずっと以前からの恒例で今年も大層な賑いでした。
学園祭のプログラムリストを見ますが、私が在校していた頃はあった「落語研究会」の名がありません。後でネットで検索してみましたがやはり全くヒットしません。無くなってしまったのでしょうか。テレビやラジオでも落語の放送は数えられるほどしかない今の時代、18歳やそこらの若者が落語に興味を持つきっかけがそうそうあるとは思えません。人材が集まらず潰れてしまった可能性が高いのでしょう。
私が落語趣味に走るきっかけはこの大学にありました。長くなりましので、また機会をみてどのようにして落語に興味を持つようになったのか記そうと思います。
本日のラジオ寄席は三代目金馬師でした ― 2012年11月04日 22:47
おまちかね、TBSラジオ「ラジオ寄席」では本日、三代目三遊亭金馬師の「八五郎出世」と「居酒屋」が放送されました。
「八五郎出世」は「落語はろー」リスト「妾馬」のテイク2。1960.08.19放送の音源。過去にレコードで発売されていましたがCD化はされておらず、現在入手は難しい音源です。タイムは26:51で、私の所持しているレコードは27:24ですから30秒程のカットがあった模様です。これくらいのカットでしたら、「居酒屋」の方でもう少しカットを増やし、こちらをノーカットで放送してもらいたかったのですが。もしかしたら近い将来、CDをノーカットで発売する予定なので、放送の方ではわざとカット音源を流したのでは・・・、というのは邪推しすぎでしょうか。
「居酒屋」は「落語はろー」リストのテイク3。1961.11.20のスタジオ収録、1961.12.07放送の音源。 やはりCD化されていません。タイムは17:20で私の所持しているレコードでは27:20、ちょうど10分カットされています。これはカット音源というよりはダイジェスト版といった方が良いかもしれません。
なお10月21日は、桂文朝師と先日亡くなった玉川スミさんが、10月28日はこれも先日亡くなった古今亭圓菊師の放送があった模様。TBSでは野球中継のため放送されませんでしたが、「裏送り」といって野球中継をしない地方ローカル局では放送があったようです。もし地方在住の方で詳しい情報がありましたら教えていただけないでしょうか。
「八五郎出世」は「落語はろー」リスト「妾馬」のテイク2。1960.08.19放送の音源。過去にレコードで発売されていましたがCD化はされておらず、現在入手は難しい音源です。タイムは26:51で、私の所持しているレコードは27:24ですから30秒程のカットがあった模様です。これくらいのカットでしたら、「居酒屋」の方でもう少しカットを増やし、こちらをノーカットで放送してもらいたかったのですが。もしかしたら近い将来、CDをノーカットで発売する予定なので、放送の方ではわざとカット音源を流したのでは・・・、というのは邪推しすぎでしょうか。
「居酒屋」は「落語はろー」リストのテイク3。1961.11.20のスタジオ収録、1961.12.07放送の音源。 やはりCD化されていません。タイムは17:20で私の所持しているレコードでは27:20、ちょうど10分カットされています。これはカット音源というよりはダイジェスト版といった方が良いかもしれません。
なお10月21日は、桂文朝師と先日亡くなった玉川スミさんが、10月28日はこれも先日亡くなった古今亭圓菊師の放送があった模様。TBSでは野球中継のため放送されませんでしたが、「裏送り」といって野球中継をしない地方ローカル局では放送があったようです。もし地方在住の方で詳しい情報がありましたら教えていただけないでしょうか。
圓生とパンダが死んだ日 ― 2012年11月19日 00:55
私は朝食はクルマを少し走らせて外で食べる事が多いのですが、その出かけた足でふと図書館へ行きたくなり、我が家から車で15分程の市立中央図書館へ赴きました。三遊亭圓生師の逝去時の新聞記事を見てみたくなったからです。実は十何年か前にも新聞の縮刷版をコピーし部屋のファイルのどこだかに挟んだはずなのですが、どこにしまったか忘れてしまい、探すのならもう一度コピーし直した方が手っ取り早いと思った次第です。逝去翌日の朝日・読売・毎日の記事を見ましたが、なかなか興味深い事が分かります。
総武線津田沼駅前にある複合商業施設「サンペデック」での後援会の集会で一席演じたのちに倒れ、近くの病院で亡くなった事になっています。記事によれば、施設内にある結婚式場を使って行われた「後援会の集い」が圓生師最後の口演が行われた場であった事が分かります。この後援会の集いには当時の習志野市長も出席していたとのこと。亡くなったのはサンペデックから1kmほど離れた「三橋整形外科耳鼻科病院」ですが、当時この病院には内科も外科もなく、心臓発作で倒れた圓生師がなぜこの病院へ運ばれたのは不明。単に近かったからかもしれませんが。
落語ファンの間では今でも「圓生はパンダと同じ日に死んだ」と語り草になっていますが、パンダのランランが死んだのは9月4日の未明(午前1時24分)で正確に言えば翌日です。4日の朝刊には各紙でパンダが死んだ記事が掲載されていますが、午前1時24分に死んでその日の朝刊に大きく載っているとはちょっと驚きです。おそらくこの記事が間に合ったのは最終版(朝日は13版、読売・毎日は14版)のみで、多摩地域や千葉・埼玉に配達される最終版以前の版には掲載されなかったものと思われます。
ちなみに私はこの時中学1年生。当時、パンダが死んだ事が大きなニュースになったのは良く覚えていますが、圓生師の事は全く知りませんでした。この頃落語で知っている事と言えば「笑点」関係のみで、「三遊亭圓生」という噺家は名前を聞いた覚えもありませんでした。初代三平師匠や彦六師匠が亡くなった時の事は覚えています。やはりテレビの影響が大きかったのですね。長くなるので続きは明日以降記します。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
総武線津田沼駅前にある複合商業施設「サンペデック」での後援会の集会で一席演じたのちに倒れ、近くの病院で亡くなった事になっています。記事によれば、施設内にある結婚式場を使って行われた「後援会の集い」が圓生師最後の口演が行われた場であった事が分かります。この後援会の集いには当時の習志野市長も出席していたとのこと。亡くなったのはサンペデックから1kmほど離れた「三橋整形外科耳鼻科病院」ですが、当時この病院には内科も外科もなく、心臓発作で倒れた圓生師がなぜこの病院へ運ばれたのは不明。単に近かったからかもしれませんが。
落語ファンの間では今でも「圓生はパンダと同じ日に死んだ」と語り草になっていますが、パンダのランランが死んだのは9月4日の未明(午前1時24分)で正確に言えば翌日です。4日の朝刊には各紙でパンダが死んだ記事が掲載されていますが、午前1時24分に死んでその日の朝刊に大きく載っているとはちょっと驚きです。おそらくこの記事が間に合ったのは最終版(朝日は13版、読売・毎日は14版)のみで、多摩地域や千葉・埼玉に配達される最終版以前の版には掲載されなかったものと思われます。
ちなみに私はこの時中学1年生。当時、パンダが死んだ事が大きなニュースになったのは良く覚えていますが、圓生師の事は全く知りませんでした。この頃落語で知っている事と言えば「笑点」関係のみで、「三遊亭圓生」という噺家は名前を聞いた覚えもありませんでした。初代三平師匠や彦六師匠が亡くなった時の事は覚えています。やはりテレビの影響が大きかったのですね。長くなるので続きは明日以降記します。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
圓生とパンダが死んだ日(続き) ― 2012年11月20日 00:37
昨日の続きです。前の項からご覧下さい。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
圓生師は、誕生日と死去した日が同一日であることは落語ファンの間では有名です。逝去時の朝日新聞の記事に記されているのですが、戸籍上は誕生日は1901(明治34)年5月13日だったとのこと。これは著書「寄席育ち」の中でも記されている事です。昔は万事おおらかというかいい加減だったのですね。キッチリした性格の圓生師はあくまでも本当の誕生日である「明治33年9月3日」を誕生日としていましたが、公的な書類に戸籍上の誕生日を書かなければならなかった時などは戸惑ったことでしょう。ちなみに私は圓生師が死去した当時「ドラえもん」の熱狂的ファンでした。ドラえもんの誕生日も9月3日ですので中学1年生の私は、圓生師が亡くなり世の落語ファンが嘆く中、この日を祝っていたかもしれません。
また、同じく記事中に圓生師の当時の自宅の住所、マンション名、さらには部屋番号までが記載されています。これもプライバシーだの個人情報保護だのにうるさい現在では考えられないことです。
ネットで調べてみたところ、この中野区のマンションは1970年の10月の築で43年経った今も現存するとのこと。ここから東へ200メートルほど行き橋を渡ると新宿区に入り町名は「北新宿」となります。ここの旧町名は「柏木」で、圓生師は「柏木の師匠」と呼ばれましたが、中野区に転居しながら尚も「柏木」のそばに住みたいという事だったのでしょうか。「柏木」が「北新宿」に町名変更されたのは1971(昭和45)年。「新宿」というブランドを最大限に利用したい不動産屋とそれに息のかかった政治家の思惑が働いたのかもしれませんが、圓生師もこの無思慮・無粋さには嘆いたことでしょう。圓生師が亡くなってすでに33年。現在、中野区のこのマンションに住む人々は昭和を代表する名人落語家がかつてここに住んでいたことを果たして知っているのでしょうか。折があったら今度そっと訪れてみようかと思います。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
圓生師は、誕生日と死去した日が同一日であることは落語ファンの間では有名です。逝去時の朝日新聞の記事に記されているのですが、戸籍上は誕生日は1901(明治34)年5月13日だったとのこと。これは著書「寄席育ち」の中でも記されている事です。昔は万事おおらかというかいい加減だったのですね。キッチリした性格の圓生師はあくまでも本当の誕生日である「明治33年9月3日」を誕生日としていましたが、公的な書類に戸籍上の誕生日を書かなければならなかった時などは戸惑ったことでしょう。ちなみに私は圓生師が死去した当時「ドラえもん」の熱狂的ファンでした。ドラえもんの誕生日も9月3日ですので中学1年生の私は、圓生師が亡くなり世の落語ファンが嘆く中、この日を祝っていたかもしれません。
また、同じく記事中に圓生師の当時の自宅の住所、マンション名、さらには部屋番号までが記載されています。これもプライバシーだの個人情報保護だのにうるさい現在では考えられないことです。
ネットで調べてみたところ、この中野区のマンションは1970年の10月の築で43年経った今も現存するとのこと。ここから東へ200メートルほど行き橋を渡ると新宿区に入り町名は「北新宿」となります。ここの旧町名は「柏木」で、圓生師は「柏木の師匠」と呼ばれましたが、中野区に転居しながら尚も「柏木」のそばに住みたいという事だったのでしょうか。「柏木」が「北新宿」に町名変更されたのは1971(昭和45)年。「新宿」というブランドを最大限に利用したい不動産屋とそれに息のかかった政治家の思惑が働いたのかもしれませんが、圓生師もこの無思慮・無粋さには嘆いたことでしょう。圓生師が亡くなってすでに33年。現在、中野区のこのマンションに住む人々は昭和を代表する名人落語家がかつてここに住んでいたことを果たして知っているのでしょうか。折があったら今度そっと訪れてみようかと思います。
圓生師終焉の地へゆく(その1) ― 2012年11月22日 01:12
昨日は千葉県船橋市に赴き、午後2時頃には用事が済みましたので、その足で東隣の習志野市へ行き、三遊亭圓生師の終焉の地を訪ねることにしました。
東京駅から総武快速線で津田沼駅までは30分程。JR駅の北口から新京成線新津田沼駅までの300メートル程の通りが駅付近でもっとも繁華な地帯で、パルコやイトーヨーカドーなどの大型店が立地します。繁華な北口に比して南口は開発が遅れ、十数年前までは西側に広大な畑地が広がるという有様でした。wikipediaによるとこの南口が整備され大型複合施設「サンペデック」が開業したのは1978年10月。3階までがスーパーなどの商業施設で、その直上の西側と東側に11階建ての棟がそれぞれ建ち、その中央に「習志野文化ホール」があります。
東側の棟の11階にあった結婚式場(宴会場とも)「菊の間」で行われた後援会の発足記念の式で圓生師は小噺「桜鯛」を演じた後に心臓発作で倒れ、その後近くの病院で亡くなりました。書籍やネットで最後の口演は「習志野文化ホール」でなされたとの記述があちこちでありますが、これは別の施設であり誤りです。ちなみに亡くなった翌月の10月6日にはこの「習志野文化ホール」で圓生師の独演会が予定されていたとの事。なお「サンペデック」は現在は「モリシア」と名が変更され、東側の棟は「レストラン棟」と称されています。
さて、そのレストラン棟の4階部分脇の小公園スペースに植込みがあり、ここに「六代目三遊亭圓生終焉の地」の石碑が建ちます。刻まれた句は「根なし草語る浮世を圓く生き」。最晩年にはお騒がせの人となってしまったのに「圓く生き」とは少々皮肉めいていますが。この石碑の向かい側が「文化ホール」の入り口なので最後の口演の地と混同される原因となっているようです。
レストラン棟に入りエレベーターで11階まで昇ります。現在は高級中華料理店として有名な「銀座アスター」になっています。会食の場であり一人で食す所ではないし、なにより一食するだけでウン千円もする店ですので早々に退散しました。機会があれば名人圓生を理解できる人を連れてゆっくり食事したいと思います。
この後は、心臓発作で倒れた圓生師が搬送され息を引き取った病院を訪ねたのですが、長くなりましたので明日以降記すことにします。
東京駅から総武快速線で津田沼駅までは30分程。JR駅の北口から新京成線新津田沼駅までの300メートル程の通りが駅付近でもっとも繁華な地帯で、パルコやイトーヨーカドーなどの大型店が立地します。繁華な北口に比して南口は開発が遅れ、十数年前までは西側に広大な畑地が広がるという有様でした。wikipediaによるとこの南口が整備され大型複合施設「サンペデック」が開業したのは1978年10月。3階までがスーパーなどの商業施設で、その直上の西側と東側に11階建ての棟がそれぞれ建ち、その中央に「習志野文化ホール」があります。
東側の棟の11階にあった結婚式場(宴会場とも)「菊の間」で行われた後援会の発足記念の式で圓生師は小噺「桜鯛」を演じた後に心臓発作で倒れ、その後近くの病院で亡くなりました。書籍やネットで最後の口演は「習志野文化ホール」でなされたとの記述があちこちでありますが、これは別の施設であり誤りです。ちなみに亡くなった翌月の10月6日にはこの「習志野文化ホール」で圓生師の独演会が予定されていたとの事。なお「サンペデック」は現在は「モリシア」と名が変更され、東側の棟は「レストラン棟」と称されています。
さて、そのレストラン棟の4階部分脇の小公園スペースに植込みがあり、ここに「六代目三遊亭圓生終焉の地」の石碑が建ちます。刻まれた句は「根なし草語る浮世を圓く生き」。最晩年にはお騒がせの人となってしまったのに「圓く生き」とは少々皮肉めいていますが。この石碑の向かい側が「文化ホール」の入り口なので最後の口演の地と混同される原因となっているようです。
レストラン棟に入りエレベーターで11階まで昇ります。現在は高級中華料理店として有名な「銀座アスター」になっています。会食の場であり一人で食す所ではないし、なにより一食するだけでウン千円もする店ですので早々に退散しました。機会があれば名人圓生を理解できる人を連れてゆっくり食事したいと思います。
この後は、心臓発作で倒れた圓生師が搬送され息を引き取った病院を訪ねたのですが、長くなりましたので明日以降記すことにします。
圓生師終焉の地へゆく(その2) ― 2012年11月23日 02:49
昨日の続きです。
私は総武線沿線に住む人間なので、津田沼の駅は電車で千回とか二千回とか通過しているはずです。なのですが圓生師は最も敬慕する噺家でありながら石碑の建つこの「終焉の地」を訪れるのは今回が2回目です。
圓生師最後の口演の場である元結婚式場、現中華料理店をチラッと覗いた後は南東に1キロメートルほどの所にある「習志野第一病院」へ15分程かけて徒歩で向かいます。
先日も記した通り圓生師は津田沼駅前のサンペデックという商業施設内の結婚式場での後援会発足式で小噺「桜鯛」を演じた直後心臓発作で苦しみだし、その場に居合わせた習志野医師会長の応急手当てを受けます。救急車で圓生師が収容されたのが「三橋整形外科耳鼻科医院」で、現在は「習志野第一病院」と名称が変更されています。
病院へ搬送されたものの次第に意識が遠のき午後9時35分に息を引き取りました。圓丈師の著書「御乱心」にこの時の模様は詳しく書かれていますが、最後の1時間はもう反応が無い状態で、医師による心臓マッサージを止め蘇生を諦めたのが、9時35分とのことのようです。最後の言葉は手当した医師に言った「だいぶ楽になりました」または「横向きに寝かせてほしい」だったとの事。臨終の場には、はな夫人、圓楽師らの弟子が立ち会いました。
さて、その臨終の場となった現在の「習志野第一病院」ですが、総合病院となっていくつかの病棟が立ち並びます。そのひとつひとつに「習志野第一病院」という文字が掲げられ、まるで増改築を繰り返した田舎の温泉ホテルのような複雑さとなっています。緑色の屋根の3階建て部分がおそらく昔からの病棟なのではないのでしょうか。圓生師はこの病院のどこら辺で亡くなったのでしょうか。知る術は有りませんし、そこまで知る必要もないでしょう。
圓生師終焉の地を訪ねて特に感慨というものはありません。私は元々無信心な人間ですし。ただ、昭和を代表する名人である圓生の足跡と記録を留めておきたいという気持ちからちょっと足を延ばした次第です。
私は総武線沿線に住む人間なので、津田沼の駅は電車で千回とか二千回とか通過しているはずです。なのですが圓生師は最も敬慕する噺家でありながら石碑の建つこの「終焉の地」を訪れるのは今回が2回目です。
圓生師最後の口演の場である元結婚式場、現中華料理店をチラッと覗いた後は南東に1キロメートルほどの所にある「習志野第一病院」へ15分程かけて徒歩で向かいます。
先日も記した通り圓生師は津田沼駅前のサンペデックという商業施設内の結婚式場での後援会発足式で小噺「桜鯛」を演じた直後心臓発作で苦しみだし、その場に居合わせた習志野医師会長の応急手当てを受けます。救急車で圓生師が収容されたのが「三橋整形外科耳鼻科医院」で、現在は「習志野第一病院」と名称が変更されています。
病院へ搬送されたものの次第に意識が遠のき午後9時35分に息を引き取りました。圓丈師の著書「御乱心」にこの時の模様は詳しく書かれていますが、最後の1時間はもう反応が無い状態で、医師による心臓マッサージを止め蘇生を諦めたのが、9時35分とのことのようです。最後の言葉は手当した医師に言った「だいぶ楽になりました」または「横向きに寝かせてほしい」だったとの事。臨終の場には、はな夫人、圓楽師らの弟子が立ち会いました。
さて、その臨終の場となった現在の「習志野第一病院」ですが、総合病院となっていくつかの病棟が立ち並びます。そのひとつひとつに「習志野第一病院」という文字が掲げられ、まるで増改築を繰り返した田舎の温泉ホテルのような複雑さとなっています。緑色の屋根の3階建て部分がおそらく昔からの病棟なのではないのでしょうか。圓生師はこの病院のどこら辺で亡くなったのでしょうか。知る術は有りませんし、そこまで知る必要もないでしょう。
圓生師終焉の地を訪ねて特に感慨というものはありません。私は元々無信心な人間ですし。ただ、昭和を代表する名人である圓生の足跡と記録を留めておきたいという気持ちからちょっと足を延ばした次第です。
本日のラジオ寄席は春風亭柳昇師の特集 ― 2012年11月25日 23:51
本日のラジオ寄席は春風亭柳昇師の特集でした。「女房の買い物」は1990年、「坊ちゃん」は1982年、「雑俳」は1995年の録音との事でしたが、柳昇師については詳しいデータは分かりません。ごめんなさい。柳昇師についても音源を集めているのですが積極的に集めている訳ではなくそれほど珍しいものはありませんし、データの整理もしていません。「新作落語」というものはその時代限りで消滅する事が多く、継承するものとしての価値が見いだし難いので、コレクトする意欲もなかなか湧かないのかもしれません。「落語はろー・データ編」のページがほぼ古典落語の情報で占められているのもそんな理由からなのでしょう。
そのページを作成している私も古典落語至上主義の人間なのかと思われてしまいそうですが、どうして、新作落語を聴くのも好きなのです。私が寄席通いに夢中になった1990年前後は柳昇師も元気に活躍していた時代で、新宿末広亭の古びた建物、寄席の気だるい雰囲気、そして柳昇師のトボケた味わいが大好きでした。
「カラオケ病院」という柳昇師の十八番があります。サゲは「私の職業は地上げ屋です」ですが、いうまでもなく地上げ屋が跋扈したのはバブルの時期でした。それが1990年代中頃になり地上げ屋というものが消滅しても、尚も同じくこのサゲを使っているのを聴き、少々幻滅しました。バブルなんというものはとっくに過去の物になり、今は地価が暴落し、名うての不動産会社が次々と倒産している時代なのに、地上げ屋が大手を振っていた頃のサゲを使う「時代感覚」の無さに失望したのです。
柳家金語楼師はあれだけ沢山の新作落語を作ったのに関わらず今でも演じられているのは「ラーメン屋」くらいで、あとは遺物として埋もれています。「新作落語」をめぐる問題点はまた時を改めて記したいと思います。
ラジオ寄席は12月2日と9日は公開録音の放送、16日は総選挙の日ですので放送は休止でしょう。「懐かしの名人芸」はしばらくオアズケですね。年末はまたいろいろな特集番組を放送してくれるかもしれません。期待しましょう。
そのページを作成している私も古典落語至上主義の人間なのかと思われてしまいそうですが、どうして、新作落語を聴くのも好きなのです。私が寄席通いに夢中になった1990年前後は柳昇師も元気に活躍していた時代で、新宿末広亭の古びた建物、寄席の気だるい雰囲気、そして柳昇師のトボケた味わいが大好きでした。
「カラオケ病院」という柳昇師の十八番があります。サゲは「私の職業は地上げ屋です」ですが、いうまでもなく地上げ屋が跋扈したのはバブルの時期でした。それが1990年代中頃になり地上げ屋というものが消滅しても、尚も同じくこのサゲを使っているのを聴き、少々幻滅しました。バブルなんというものはとっくに過去の物になり、今は地価が暴落し、名うての不動産会社が次々と倒産している時代なのに、地上げ屋が大手を振っていた頃のサゲを使う「時代感覚」の無さに失望したのです。
柳家金語楼師はあれだけ沢山の新作落語を作ったのに関わらず今でも演じられているのは「ラーメン屋」くらいで、あとは遺物として埋もれています。「新作落語」をめぐる問題点はまた時を改めて記したいと思います。
ラジオ寄席は12月2日と9日は公開録音の放送、16日は総選挙の日ですので放送は休止でしょう。「懐かしの名人芸」はしばらくオアズケですね。年末はまたいろいろな特集番組を放送してくれるかもしれません。期待しましょう。
SPレコード用プレーヤを購入する ― 2012年11月30日 21:24
『落語はろー・データ編』は2カ月ほど更新していません。ちょっとサボっています。データ編では当初はSP盤は対象外としていたのですが、志ん生師のページを新規UPする際、確認されているSP盤の数が19枚とそれほど多くないので全ての情報を掲載することになりました。志ん生師だけ載せるというのも片手落ちなので他の師匠も調べる事になりました。八代目文楽師のSP盤は7枚、彦六の正蔵師は17枚、圓生師いたっては何と1枚のみと大した枚数ではないのですが、問題は三代目金馬師です。
都家歌六師の著書『落語レコード八十年史』によれば発売された金馬師のSP盤は約100枚。復刻されているCD・レコード・カセットテープを片っ端から集めましたが、それでも28本にしかなりません。他の七十数枚のデータも欲しい。やはり復刻盤で集めるのではなく、SP盤そのものを集めなければダメだ。ということでamazonでSP盤対応のレコードプレーヤーを1万3千円で購入することにしたのです。SP盤はネットオークションで入手しています。
で、早速SP盤を再生したのですが、どうしたことか3枚に1枚程度の割で「針飛び」が起こる。SP盤とはこんな物なのかと愕然としましたが、よくよく調べてみると、これはプレーヤーの構造の問題で、アームの動く範囲に制約があり、SP盤によってはアームが溝の最も内側の部分まで届かなくなっているのです。諦めて他のプレーヤーを購入しようかとも思ったのですがそれは勿体ない。どうにかならないかと考えた末、プレーヤのビスを取り、分解し、アームの動きを止めているプラスチック部分をニッパで無理矢理切り取ってみたところ、見事アームがSP盤の最も内側の部分まで届くようになりました。メデタシメデタシ。
ネットオークションでのSP盤の相場は1枚500円から1500円。さらに送料がかかります。これでたったの6分間しか楽しめません。しかもノイズだらけの「ハズレ」もあります。SP盤収集とは何とも手間と金のかかる趣味ですね。
都家歌六師の著書『落語レコード八十年史』によれば発売された金馬師のSP盤は約100枚。復刻されているCD・レコード・カセットテープを片っ端から集めましたが、それでも28本にしかなりません。他の七十数枚のデータも欲しい。やはり復刻盤で集めるのではなく、SP盤そのものを集めなければダメだ。ということでamazonでSP盤対応のレコードプレーヤーを1万3千円で購入することにしたのです。SP盤はネットオークションで入手しています。
で、早速SP盤を再生したのですが、どうしたことか3枚に1枚程度の割で「針飛び」が起こる。SP盤とはこんな物なのかと愕然としましたが、よくよく調べてみると、これはプレーヤーの構造の問題で、アームの動く範囲に制約があり、SP盤によってはアームが溝の最も内側の部分まで届かなくなっているのです。諦めて他のプレーヤーを購入しようかとも思ったのですがそれは勿体ない。どうにかならないかと考えた末、プレーヤのビスを取り、分解し、アームの動きを止めているプラスチック部分をニッパで無理矢理切り取ってみたところ、見事アームがSP盤の最も内側の部分まで届くようになりました。メデタシメデタシ。
ネットオークションでのSP盤の相場は1枚500円から1500円。さらに送料がかかります。これでたったの6分間しか楽しめません。しかもノイズだらけの「ハズレ」もあります。SP盤収集とは何とも手間と金のかかる趣味ですね。
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