古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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圓生とパンダが死んだ日(続き) ― 2012年11月20日 00:37
昨日の続きです。前の項からご覧下さい。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
圓生師は、誕生日と死去した日が同一日であることは落語ファンの間では有名です。逝去時の朝日新聞の記事に記されているのですが、戸籍上は誕生日は1901(明治34)年5月13日だったとのこと。これは著書「寄席育ち」の中でも記されている事です。昔は万事おおらかというかいい加減だったのですね。キッチリした性格の圓生師はあくまでも本当の誕生日である「明治33年9月3日」を誕生日としていましたが、公的な書類に戸籍上の誕生日を書かなければならなかった時などは戸惑ったことでしょう。ちなみに私は圓生師が死去した当時「ドラえもん」の熱狂的ファンでした。ドラえもんの誕生日も9月3日ですので中学1年生の私は、圓生師が亡くなり世の落語ファンが嘆く中、この日を祝っていたかもしれません。
また、同じく記事中に圓生師の当時の自宅の住所、マンション名、さらには部屋番号までが記載されています。これもプライバシーだの個人情報保護だのにうるさい現在では考えられないことです。
ネットで調べてみたところ、この中野区のマンションは1970年の10月の築で43年経った今も現存するとのこと。ここから東へ200メートルほど行き橋を渡ると新宿区に入り町名は「北新宿」となります。ここの旧町名は「柏木」で、圓生師は「柏木の師匠」と呼ばれましたが、中野区に転居しながら尚も「柏木」のそばに住みたいという事だったのでしょうか。「柏木」が「北新宿」に町名変更されたのは1971(昭和45)年。「新宿」というブランドを最大限に利用したい不動産屋とそれに息のかかった政治家の思惑が働いたのかもしれませんが、圓生師もこの無思慮・無粋さには嘆いたことでしょう。圓生師が亡くなってすでに33年。現在、中野区のこのマンションに住む人々は昭和を代表する名人落語家がかつてここに住んでいたことを果たして知っているのでしょうか。折があったら今度そっと訪れてみようかと思います。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
圓生師は、誕生日と死去した日が同一日であることは落語ファンの間では有名です。逝去時の朝日新聞の記事に記されているのですが、戸籍上は誕生日は1901(明治34)年5月13日だったとのこと。これは著書「寄席育ち」の中でも記されている事です。昔は万事おおらかというかいい加減だったのですね。キッチリした性格の圓生師はあくまでも本当の誕生日である「明治33年9月3日」を誕生日としていましたが、公的な書類に戸籍上の誕生日を書かなければならなかった時などは戸惑ったことでしょう。ちなみに私は圓生師が死去した当時「ドラえもん」の熱狂的ファンでした。ドラえもんの誕生日も9月3日ですので中学1年生の私は、圓生師が亡くなり世の落語ファンが嘆く中、この日を祝っていたかもしれません。
また、同じく記事中に圓生師の当時の自宅の住所、マンション名、さらには部屋番号までが記載されています。これもプライバシーだの個人情報保護だのにうるさい現在では考えられないことです。
ネットで調べてみたところ、この中野区のマンションは1970年の10月の築で43年経った今も現存するとのこと。ここから東へ200メートルほど行き橋を渡ると新宿区に入り町名は「北新宿」となります。ここの旧町名は「柏木」で、圓生師は「柏木の師匠」と呼ばれましたが、中野区に転居しながら尚も「柏木」のそばに住みたいという事だったのでしょうか。「柏木」が「北新宿」に町名変更されたのは1971(昭和45)年。「新宿」というブランドを最大限に利用したい不動産屋とそれに息のかかった政治家の思惑が働いたのかもしれませんが、圓生師もこの無思慮・無粋さには嘆いたことでしょう。圓生師が亡くなってすでに33年。現在、中野区のこのマンションに住む人々は昭和を代表する名人落語家がかつてここに住んでいたことを果たして知っているのでしょうか。折があったら今度そっと訪れてみようかと思います。
コメント
_ snob ― 2012年11月20日 14:34
_ mirach ― 2012年11月20日 17:50
事の背景や本質というのは、よくよく調べて見なければ分からないものですね。また後年になって分かる事実というのも多々あります。当時、世間では判官贔屓で圓生を応援した人も多かったようですが、筋を通すだけでは済まない「落語界」での事情がありました。その後の経過をみると圓生のあの行動はやはり無理・無茶があったかと思います。にも関わらず圓生が噺家として最高峰であった事は間違いなく、「芸」の評価はいささかも揺るぎません。
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その後、三遊協会がぽしゃってからはさほど興味もなく、死亡記事は覚えていませんでした。そのころから音源を集めていれば、というのは”ない子を数える”話です。