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八代目三笑亭可楽の居宅を訪ねる2014年10月16日 23:03

 八代目可楽と言えばあの舌の回りの悪い不思議な「べらんめえ」口調。いかにも江戸というか古い東京を思わせてくれる師匠ですが、CDブック「昭和の名人」の冊子を読むと住居は新宿区戸山だったそう。山の手です。師のイメージからは下町住まいなのですが、どのような事情があったのでしょう。戸山というと戦前は軍の諸施設が存在し、戦後東京の住宅難に伴って都営団地が計画的に建設・開発されたりした新しい町です。先代可楽の3番目の妻となった方が戸山の復興住宅に住んでおり、その方と同居するとの形で先代可楽もこの戸山の住人になったそうです。晩年、病魔に侵され入退院を繰り返すようになった一方、戸山の町内で土地を買い自身の家を建てました。そして亡くなったのは昭和39年の8月。この新築したばかりの家にはごく短い間しか住まなかったことになります。
 ということで、住居は戸山のどこにあったのか特定の作業です。例によって国会図書館へ行き、過去の東京都23区の電話帳をあたります。探すと「三笑亭可楽」という欄があり住所はあっさり分かりました。師の本名は「麹池(きくち)元吉」。麹町(こうじまち)の「麹」で「きく」と読ませるとは大変変わった姓です。電話帳を眺めているうちに一つ面白い事を発見しました。この東京都23区の電話帳にも「麹池」という苗字の家は3軒しかなく、そのうちの1軒で大田区に「麹池三吉(表具)」という表記を見つけました。wikipediaによると先代可楽は黒門町の経師屋の家の生まれだそうで、長男だった可楽は家業を継がず、代わりに弟が継ぎさらに居を大田区に移したのでは、そんな可能性が十分にあると思います。
 次に国会図書館の内の地図室へ行き、昭和39年前後の新宿区の住宅地図を探します。人文社という会社と住宅協会という会社の2社の地図がありました。電話帳で探し当てた戸山町43番地というのがやたら広く百数十軒の家がある。そしてあるにはあったのですが、片方の出版社の地図では「麹」の文字の左側が「糸」のようになっている。地図を作製した人もこの難字には惑わされたようです。(下の画像をクリックすると大きな画像で見られます)

三笑亭可楽居宅地図(1)


三笑亭可楽居宅地図(2)


 すぐ北側には区の福祉施設がありその北側が都立戸山高等学校。師の最後のお弟子さんは今の茶楽師匠ですがどういう縁か、茶楽師はこの戸山高校の出身です。明治通りの向かいの土地は、「早稲田大学理工学部建設用地」とある。さらにトロリーバスの車庫があります。昭和40年代まで日本でも大都市を中心にトロリーバスは走っていましたが、今では立山黒部アルペンルートに観光用路線として残っているのみ。当時は東京では明治通り沿いに3本の路線があったようです。
 というわけで今月のある日、さっそくこの家を訪ねました。トロリーバスが廃止されて40年ほど経ち、今明治通りの地下を走るのは2008年に開業した副都心線。初めて西早稲田の駅で下車し南側の出口を出ます。賑やかな明治通りから一歩脇へ入ると閑静な住宅街に。先代可楽の住んでいた家は駅を出て歩いて5分とかからない場所にありました。

三笑亭可楽居宅写真(1)


三笑亭可楽居宅写真(2)


 最近は見かけることも少なくなった下目板張りの家。いかにも昭和30年代と思わす家で、師が亡くなる前に建てた自宅というのがそのままに残っているのでしょう。楕円形の小さな表札があり「麹池」とあります。(ただし「麦」部分は旧字体となっている)。先代可楽には2番目の妻との間に娘さんが一人いたそうですが、いまここに住んでいるのはどなたなのでしょう。静かな住宅街の中で怪しげな男が一人あまりボッーと突っ立ているものではありません。プライベートな事を詮索する間もなく、かつての師の居宅を離れました。

コメント

_ 納札小僧 ― 2014年10月17日 23:35

今回の調査はスゴイッすね!

可楽が戸山に住んでいたのは知っていましたが、まさか大田区の
元実家の転居先まで調べてあるとは。やっぱし建具屋なんですね。
って~ことは創業百年以上の老舗なんですね。

可楽はアタシも大好きな噺家の一人です。
「二番煎じ」「今戸焼」「反魂香」の三席は
アタシの基準で可楽のが一番。

貧乏で売れなかった、柳楽時代の話しなんかを、
宇野先生の随筆や、柳界の粋人坊野寿山先生の本で読むと、
人の良い可楽の人物像が彷彿してきます。

また、泣き上戸ってぇ~とこが堪んなくイイですね!

柳枝と飲んで「勝っちゃん!お前さんの前ですけど、
アタシんとこの会(芸協)なんてぇ~モンは」
よっぽど不満があったんでしょうね。

一時は協会の方への移籍話もあったようですが、香盤の
関係でオジャンになったとか?
やっぱり、「半鐘はいけない、オジャンになるから」ですかねぇ~

寿山師の句と思いましたが、可楽を詠んで

「焼きソバの 好きな女房と 仮住まい」

この小唄の師匠に、毎んち焼きソバを付き合わされ、胃を壊したとか。

八代目三笑亭可楽が亡くなり、今年は丁度50回忌。

こんなにも江戸の息吹を感じさせ、裏店の悲哀を見事に映しだした
噺家さん達は、もう出てこれないな。

アタシにも、反魂香が一つまみ有れば、一月の大寒の頃に香をくべて、
師匠を呼び出し「二番煎じ」を聴いてみたいね。

ダラダラと失礼!

_ はろー ― 2014年10月19日 01:00

可楽といえば、江戸の下町の香りをそのまま漂わせたような噺家で
名人上手が百花繚乱した昭和30年代でも、この人がいなかったら
この時代の落語史は相当変わっていたでしょう。
上手い、というよりも味わい深さが身上ですね。
可楽が亡くなったのが昭和39年の8月。
この直後には東京オリンピックがあり、東京は
急速に古いものを捨て、目新しさばかりに追い回された
ような街になってしまいました。

_ 茶楽 ― 2015年03月08日 01:07

「三吉」さんは 師匠の実弟です。「今戸焼」にも「三吉」さんを登場させてました。
東京五輪の開会式が七七忌でした。それが故に前座の私は開会式のTV中継を見られませんでした。
師匠のひとり娘は漫才の「千太、万吉」の千太師の姪御さんです。

_ はろー ― 2015年03月08日 20:38

 当ブログを茶楽師匠にご覧いただき嬉しく思います。
「三吉」さんはやはり師匠の弟さんだったのですね。経師屋という商売も今ではなかなか見かけなくなりました。
 先代可楽師が亡くなって50年経ち、社会・生活・文化とすっかり様変わりしてしまいましたが、かつては東京はこんな町で、こんな落語家の師匠がいたということを、しっかり記録に残しておきたいと思います。

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