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古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。

 
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ソニー、MDプレーヤーの生産を終了2013年02月02日 14:05

 ソニーが携帯型MDプレーヤーの生産を取りやめたことは昨年ニュースになりましたが、先日、据え置き型のMDブレーヤーの生産も終了すると発表されました。i-podが音楽プレーヤー市場を席巻し始めた4~5年前からすでにMDに優位性はなく、いずれこうなる事は分かっていたのですが、いよいよかと言ったところでしょうか。
 私は1997年ころから2004年頃まで、ラジオやCDダビングなど落語音源はせっせとMDに録音していました。私がmp3というものを知ったのもやはりインターネットを始めて間もなくの1997年頃だったと思いますが、まだフロッピーディスクを使用していた時分で、容量・価格・保存性などで充分といえる記憶媒体が普及してない頃で、コンピュータで音源を保存・管理するという発想が当時はありませんでした。
 MDに録音したものは雑多です。落語については、ラジオやCDをダビングしたものがありますが、後者についてはMDに録音した音源をmp3にデジタル化するのではなく、直接CDからリッピングして再作成しています。所持しているCDに関しては問題ないのですが、入手困難なCDで図書館から借りたものについては、可能な限り再び図書館で借りることにしました。CDからMDにダビングする際に10分の1程度に圧縮されるのですが、これをいったんアナログ化して再びmp3で10分の1程に圧縮する事になります。2度の圧縮で音質は当然劣化します。素人が聴く限り(もちろん私も)、音の劣化に気付くことはありませんが、やはり音を残すなら最良の状態で残したい。ということで再び図書館へ通いました。耳で聴いても分からない音の劣化がイヤで再び手間をかけるとは、無駄な事でもこだわってしまう私の性格ゆえでしょうか。
 さらにラジオで録音した音源を、MDからコンピュータへダビングしなければなりません。当然のことながら、噺の尺の分だけダビングに時間を費やすことになります。過去の名人の音源なら何度でも楽しめるので聴きながら作業を進めれば良いのですが、なかには全く興味のない噺家さん(失礼!)で、なんでこんな音源を残すために時間を費やさなければならないのか、というようなダビング作業もこれからしていかなければなりません。いや、初代林家三平や四代目柳亭痴楽のように、当初はマニアやコレクターから全く評価されなかった噺家さんでも、後世見直されることもあるのしょうか。200枚ほどあるMDディスクを見ながら、「なんのために」と心の片隅で思いながら黙々と作業を進めることになるのでしょう。

暴力先生2013年02月05日 11:53

 一昨日にいろいろと面倒のあった事案が終了し、今は時間的にも精神的にもちょっと余裕があります。「落語はろー」の方で滞っている事項が多いのですが、この余裕のあるうちに一気に片づけてしまおうかと思っています。いや、寝るだけで時間を費やしてしまうかも。
 このブログには努めて落語関係の事しか書かないことにしているのですが、最近報道されている「体罰」問題を見聞きするにつけ、どうしても記したくなりました。興味の無い方は読み飛ばしてください。
 今から35年ほど前、私が通っていたのは首都圏郊外の住宅地の中にある小学校で1学年6クラスの規模でした。私は6年生の時には1組でしたが、3組の担任というのが「暴力をふるう先生」でした。子供の頃というものは、素直に「先生というのは偉い存在だ」「先生のいう事には従うのが当たり前だ」と思うのが普通で、その「暴力をふるう先生」についても時折うわさ話を聞きながら「怖い先生だ」というくらいの認識くらいしかありませんでした。
 組が違うのでその先生と接することはなかったのですが、夏のある日、水泳で1組から3組が合同で授業を行う事になり、その暴力先生の授業を受ける機会が巡ってきたのです。プールで何メートルだったか覚えていませんが目標とするラインまで何人かの生徒を一斉に泳がせたのですが、そのうちの1人が目標点まで到達できず立ち上がってしまいました。「何やってんだ!」その暴力先生は水をすくう大きなヒシャクをその立ち上がった生徒に向かって投げつけました。しかし狙いは外れ、泳いでいた別の女子生徒の頭に勢いよく、そのヒシャクがぶつかってしまったのです。その生徒は立ち上がって泣き出しました。私はその時の暴力先生の顔を見ましたが、もちろん謝るなどと言う事はなく困惑した表情をチラチラと見せながらも「何か俺が悪い事をしたか」と開き直っているように見えました。
 合同の授業が終わり、皆がプールから引き上げる時、1組の女性の先生(私の担任)と2組の男性の先生が「××先生ひどすぎるよね」とボッソと話しているのが耳に入りました。私が教師というものに深く失望したのはこの時が初めてだった思います。明らかに過ちを犯しながらそれを謝罪しない暴力先生。さらにその暴力先生を「ひどい」と思いながら、忠告や批判をできず陰口をたたくだけの別の先生。
 秋だったと思います。大変な事が起こりました。その暴力先生の小学生の息子が自宅近くで遊んでいる途中、クルマにひかれて死ぬという事故が起こったのです。暴力先生は声も出せなくなるほど嘆き悲しんでいるという話を聞いたのですが、私にはまったくこの暴力先生に同情する気など起きませんでした。亡くなった息子さんには大変申し訳ない言い方なのですが、その暴力先生にとっては「因果応報」(もちろん小学生でしたからそんな言葉は知らなかったでしょうが)だとさえ思えたのです。
 私は別のクラスでしたから暴力先生について傍から噂話として聞くくらいでしたが、毎日クラスで暴力先生に接していた3組の人達にとっては、あの道理の無い暴力に無言で耐えていた日々をどう思っているのか、今どう思い返すのか、そして暴力先生の息子の死をどう感じたのか。昨今あふれる「体罰」報道を見て、そんな事をふと思います。

川口市・NHKアーカイブスに行く2013年02月07日 19:11

 NHKの「番組公開ライブラリー」というのをご存じでしょうか。道府県庁のある都市のNHK支局で、NHKが所持しているコンテンツの中の一部を無料で見ることが出来るのです。昨年12月に私の地元のNHK支局へ行きこの「番組公開ライブラリー」というのを初めて視聴しました。モニターが2台、1階のロビーの一角にあるのですが、ロビーに流れるNHK番組の宣伝の音が気に障り、さらに冬休み期間中という事で子供の遊び場になっておりはしゃぐ声がするなど、落ち着いて視聴することが出来ませんでした。
 そこで、埼玉県川口市にある「NHKアーカイブス」という施設へ行くことにしました。ここには番組視聴用の専用フロアがあって図書館のような静かな環境の中で事が視聴する事が出来ます。NHKアーカイブスのホームページには、京浜東北線の川口駅からバスに乗って15分の「総合高校」というバス停で下車と書いてあるのですが、川口駅からどこ行きのバスに乗ったら良いのかが記してありません。結局リンクをたどって国際興業バスのサイトで調べて分かったのですが、なんとも不親切です。ホームページを見ている人がどういう情報が必要なのか、それをどういう形で明示したら判ってもらえるのか、ホームページを制作している人にそういうセンスが無いのでしょう。
 バス停で下車して5分ほど歩くと、市の科学館や飲食店などの商業施設のあるSKIPシティという複合施設がありますが、平日という事を割り引いても人気は少なく、完全に失敗してしまったハコモノとのイメージを受けます。このSKIPシティの奥の方に「NHKアーカイブス」はあります。
 NHKの所持する膨大なコンテンツからすれば、公開されている落語関係の映像や音声はわずかです。とりあえず落語ファンとしての見ものは、1963(昭和38)年9月19日に放送された「婦人の時間」という番組に出演した古今亭志ん生の映像でしょうか。志ん生が自身の事に関していろいろ語っており聞き手はアンツル先生、将棋の木村義雄氏、画家の鴨下晃湖氏がゲストです。この番組の模様は音声のみでカセットで以前発売されており、また数年前放送された「あの人に会いたい」というミニ番組で映像の一部の5分ほどが放送されましたが、「NHKアーカイブス」「番組公開ライブラリー」ではこの番組の30分弱の全編をすべて映像で見ることが出来ます。志ん生が自身の事を語る映像は日本テレビなどにも何本か残されていますが、ここまでたっぷり長さのある映像は他には無いのではないでしょうか。
 その他、視聴したものとしては六代目柳橋の「一目上り」と「そばや」でこれは1955(昭和30)年の音源。もちろん映像はありません。柳橋の「一目上り」を聴くのは初めてです。「一目上り」とは全く関係のないマクラをふって本題へ。長さは12分程であっという間に終わってしまいます。「そばや」は戦前戦中「支那そばや」として演じられ、SPレコードを何枚も出したりラジオ放送に掛けたりと、売れっ子だった柳橋師の代表演目でした。「支那」とか「満州の兵隊」の言葉が含まれるので戦後は演じにくくなってしまいましたが、柳橋はこのお得意の演目を捨てるのは惜しかったのか、不適切な部分を修正して戦後も演じました。
 せっかく埼玉まで来たのですから出来るだけ沢山見るべきだったのでしょうが、集中力が続かず、3時間ほど滞在して退出しました。帰りは趣向を変えて、往きに乗ったバスの終点の東川口駅まで行き、そこから武蔵野線で帰路につきました。そうですね。東京を経由しなくても埼玉から千葉へは行けるのです。

芸協と鈴本2013年02月17日 19:06

 明日からの野暮用のためにパソコンに向かい作業をしながら、HDレコーダに撮りためた落語関係の番組を見ています。1月下旬のNHKテレビ「落語図鑑」という早朝の番組で、桂米丸師とオカルトバスターで有名な物理学者・大槻義彦氏との対談のコーナーがありました。大槻氏は落語・寄席見物が趣味だそうで、その口ぶりからして米丸師向けのリップサービスでもなさそうです。東京大学に勤務していた当時、大学に比較的近い「上野鈴本演芸場」によく足を運んだとの話がでました。私は「アチャッ!」と思いました。米丸師の前で「鈴本」の名は禁句でしょう。落語にある程度詳しい方なら、落語芸術協会と上野鈴本演芸場の確執をご存知ですね。鈴本との対立で先頭に立ったのが、当時会長だった米丸師でした。
 以前は芸協も他の寄席と同じように、落語協会と交互に鈴本に出演していたのですが、1984年の秋からは出演しなくなりました。この時の経緯は、今でも刊行されているのかされていないのか分からない謎の専門誌「落語」(弘文出版)の1984年夏・秋合併号によく書かれていますので、簡単にまとめてみます。
 事の始まりは、1983年上期の鈴本の決算で、寄席部門が赤字となったことでした。ご存じの通りビルの1~2階はテナントとして貸していて安定した収入があるので、すぐに経営が傾くという事はありませんでしたが、本業である「寄席」が赤字となるのは、経営する側にとっては由々しき問題でした。鈴本は特に芸術協会の興業の時の客の入りが薄いという数字をはじき出し、この年の秋、芸協の幹部に「テコ入れをしたい」と申し入れます。これは芸協の興業を落語協会と芸術協会の合同興業とし、両協会の噺家を半々程度にするするというものでした。この申し入れは、芸協の幹部のプライドをひどく傷つけるものでした。当時の芸協の幹部は昭和30年代に寄席やテレビ・ラジオで活躍したメンバーも多く、自分らが東京の、或いは日本の演芸界を代表する存在だとの自負があったのかも知れません。
 予想外の強い反発に鈴本側もかなり折れて、あくまでも芸術協会を主体とし落語協会側の出演は「1興業あたり4人まで」としますが、芸協はさらに納得せず「1興業あたり3人まで。それも全員、落語協会の幹部を」と対案を出しました。実は以前にも芸協の興業で落語協会の噺家が助演で出演するとの場面はあったのですが、まだ若手だった権太楼師が出演した事があったそうで、この時芸協側は「自分たちの協会に若手の人材がいないと言われたようなもの」と反発したそうです。こうして、1984年の春から予定していた合同興業は、芸協側の延期の申し入れにより実施されず、6月になり7月になりました。
 7月9日、芸術協会は新宿末広亭を借り切って臨時の総会を開きます。この時の模様はまるで鈴本の悪口大会だったとの事。「鈴本は余計な従業員が多いから赤字なんだ!」「改装や社員旅行の臨時休業には、必ず芸術協会の興業の時をあてる」。普段から冷遇されているという鬱積が吹き出します。芸術協会は鈴本側に要望書を出し、受け入れられない場合は出演をボイコットする旨を通告します。こうして、1984年9月の中席より芸術協会の鈴本の出演は無くなりました。
 私がここまで書いて思う事は、芸術協会側にも鈴本側にも、昭和30年代の寄席・演芸ブームを頂点に、寄席に足を運ぶ客が漸減しているという事実に対して、合理的な切り口が見えない事です。落語を聴く人が確実に減っているという構造的問題に対し、両者とも「あっちがああだからこうなんだ」と言い合っているだけではないでしょうか。
 鈴本ボイコット以後、当時の芸術協会会長の米丸師は「新宿末広亭を拠点にして落語協会と渡り合ってゆく」と宣言しました。しかし最近になって、その末広亭からも客の入りの薄さに対し厳しい注文を突き付けられました。
 私は「落語」も「寄席」も愛する者ですが、残念ながら「寄席」というシステムが崩壊する日が近々来てもおかしくないと思っています。「協会」「寄席」という生温い括りに守られてきた噺家が、その基盤を失い、厳しい競争に晒される、そんな日も遠くない将来やってくるのではないでしょうか。