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芸協と鈴本2013年02月17日 19:06

 明日からの野暮用のためにパソコンに向かい作業をしながら、HDレコーダに撮りためた落語関係の番組を見ています。1月下旬のNHKテレビ「落語図鑑」という早朝の番組で、桂米丸師とオカルトバスターで有名な物理学者・大槻義彦氏との対談のコーナーがありました。大槻氏は落語・寄席見物が趣味だそうで、その口ぶりからして米丸師向けのリップサービスでもなさそうです。東京大学に勤務していた当時、大学に比較的近い「上野鈴本演芸場」によく足を運んだとの話がでました。私は「アチャッ!」と思いました。米丸師の前で「鈴本」の名は禁句でしょう。落語にある程度詳しい方なら、落語芸術協会と上野鈴本演芸場の確執をご存知ですね。鈴本との対立で先頭に立ったのが、当時会長だった米丸師でした。
 以前は芸協も他の寄席と同じように、落語協会と交互に鈴本に出演していたのですが、1984年の秋からは出演しなくなりました。この時の経緯は、今でも刊行されているのかされていないのか分からない謎の専門誌「落語」(弘文出版)の1984年夏・秋合併号によく書かれていますので、簡単にまとめてみます。
 事の始まりは、1983年上期の鈴本の決算で、寄席部門が赤字となったことでした。ご存じの通りビルの1~2階はテナントとして貸していて安定した収入があるので、すぐに経営が傾くという事はありませんでしたが、本業である「寄席」が赤字となるのは、経営する側にとっては由々しき問題でした。鈴本は特に芸術協会の興業の時の客の入りが薄いという数字をはじき出し、この年の秋、芸協の幹部に「テコ入れをしたい」と申し入れます。これは芸協の興業を落語協会と芸術協会の合同興業とし、両協会の噺家を半々程度にするするというものでした。この申し入れは、芸協の幹部のプライドをひどく傷つけるものでした。当時の芸協の幹部は昭和30年代に寄席やテレビ・ラジオで活躍したメンバーも多く、自分らが東京の、或いは日本の演芸界を代表する存在だとの自負があったのかも知れません。
 予想外の強い反発に鈴本側もかなり折れて、あくまでも芸術協会を主体とし落語協会側の出演は「1興業あたり4人まで」としますが、芸協はさらに納得せず「1興業あたり3人まで。それも全員、落語協会の幹部を」と対案を出しました。実は以前にも芸協の興業で落語協会の噺家が助演で出演するとの場面はあったのですが、まだ若手だった権太楼師が出演した事があったそうで、この時芸協側は「自分たちの協会に若手の人材がいないと言われたようなもの」と反発したそうです。こうして、1984年の春から予定していた合同興業は、芸協側の延期の申し入れにより実施されず、6月になり7月になりました。
 7月9日、芸術協会は新宿末広亭を借り切って臨時の総会を開きます。この時の模様はまるで鈴本の悪口大会だったとの事。「鈴本は余計な従業員が多いから赤字なんだ!」「改装や社員旅行の臨時休業には、必ず芸術協会の興業の時をあてる」。普段から冷遇されているという鬱積が吹き出します。芸術協会は鈴本側に要望書を出し、受け入れられない場合は出演をボイコットする旨を通告します。こうして、1984年9月の中席より芸術協会の鈴本の出演は無くなりました。
 私がここまで書いて思う事は、芸術協会側にも鈴本側にも、昭和30年代の寄席・演芸ブームを頂点に、寄席に足を運ぶ客が漸減しているという事実に対して、合理的な切り口が見えない事です。落語を聴く人が確実に減っているという構造的問題に対し、両者とも「あっちがああだからこうなんだ」と言い合っているだけではないでしょうか。
 鈴本ボイコット以後、当時の芸術協会会長の米丸師は「新宿末広亭を拠点にして落語協会と渡り合ってゆく」と宣言しました。しかし最近になって、その末広亭からも客の入りの薄さに対し厳しい注文を突き付けられました。
 私は「落語」も「寄席」も愛する者ですが、残念ながら「寄席」というシステムが崩壊する日が近々来てもおかしくないと思っています。「協会」「寄席」という生温い括りに守られてきた噺家が、その基盤を失い、厳しい競争に晒される、そんな日も遠くない将来やってくるのではないでしょうか。