古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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九代目桂文治の墓参りにゆく ― 2015年03月09日 06:03
「留さん文治」こと九代目桂文治師が亡くなったのは昭和53(1978)年3月8日。昨日が命日でした。昨日は午後、とある落語家さんの会へ行く予定があったので少し早目に家を出て師の墓参りをしようと考えます。墓参りと言っても線香も花も手向けたりはしません。ただ10秒ばかり墓の前で手を合わせるだけ。使うのは電車賃くらい。はたして私には「弔う」という信心はあるのでしょうか。
その九代目桂文治師ですが、落語ファンならよくご存じのよう「文治」といえば、東京・上方に数多いる「桂」の亭号を持つ噺家の中でも頂点に立つ、「特」の字が付くぐらいの大名跡です。そんな大名跡を持ちながら、九代目文治師は「風格」というよりは「ひょうひょう」という言葉の良く似あう噺家で、持ちネタは寄席で掛ける10~15分程度の噺ばかり。噺の中に混ぜるクスグリは何故か横文字を含んだものが多く、明治生まれのお爺さんが大真面目な顔をしてアナクロともシュールとも言える不思議な空気を高座から醸し出していました。
どケチなことでも有名だった留さん文治ですが、その人柄は誰からも慕われれていたそうでして、あの堅物の三遊亭圓生も慕っていた一人だったとか。ちなみに圓生の天敵であった彦六の正蔵師とこの九代目文治師が稲荷町の「長屋が隣どうしだった」ことは有名ですが、住む長屋が隣であったということで、「部屋が隣どうしだった」ということではありません。Wikipediaの記述は誤っています。
さて、その九代目桂文治師の墓参りです。昨日、小雨の降る中、千代田線に乗車し「根津」の駅で下車。交差点から言問通りを東に歩き5分ほどの場所にある「玉林寺」が墓所になります。昨年12月には正岡容の墓参りで訪れており、今回ここに来るのは2回目。前回の訪問で場所は確かめておきましたので、迷うことなく九代目桂文治師の墓へと向かいます。本堂の左手、正岡容の句碑がある所から先に進むと地蔵菩薩の並ぶ石段があり、登ってすぐ右手に正岡容の墓があります。目指す九代目文治師の墓はこの墓地の一番奥にあり、墓の間をずっと歩いて、一番奥(北西側)の宗善寺との境のブロック塀の中ほどに「有善院仙巌貞壽大姉」と正面に刻まれたグレーの御影石の墓が建ちます。(以下の画像はクリックすると大きな画面で見られます)
これだけではどなたの墓か分かりませんが、墓石右側には「昭和三十年十月八日建立 九代目翁家さん馬」との文字が読み取れ、この墓が九代目桂文治師の家の墓だと分かりました。しかし、墓石の正面になぜ、女性の方の戒名が刻まれているのでしょう。この女性は九代目文治師の身内の方、ひょっとして母親なのでしょうか。何本か並ぶ卒塔婆を見ると「桂嘯院文翁治道居士」という文字がありこれが師の戒名だと分かります。
「嘯」という見慣れない文字は、同じ墓地にある墓の正岡容の戒名でも使われていました。この寺の住職がこの文字を使うのが好きだとか? また別の卒塔婆には「噺翁清道信士」との戒名があり、これは2008年に亡くなった養子である本名高安清、十代目(十一代目とも)翁家さん馬師の卒塔婆で間違いないでしょう。よくよく考えてみると「噺」という字は「国字」で、ネットで調べると「音読み」は無いそうです。果たしてこの戒名はどう読めば良いのだろう。さらに下の方を見ると、卒塔婆を納めた方の名前で「桂文治」師と「桂右團治」師の名がありました。九代目と先代・当代文治では、同じ「桂」でも系統が全く違うのですが、由緒ある「文治」の名を継ぐ者としての敬意でこの卒塔婆を納めたのでしょう。
雨が少し強くなってきました。根津は先年亡くなった談志師も住む町でした。談志師はジーン・ケリーが好きだったそうだな、そんなことを考えながら、駅へと向かいます。
その九代目桂文治師ですが、落語ファンならよくご存じのよう「文治」といえば、東京・上方に数多いる「桂」の亭号を持つ噺家の中でも頂点に立つ、「特」の字が付くぐらいの大名跡です。そんな大名跡を持ちながら、九代目文治師は「風格」というよりは「ひょうひょう」という言葉の良く似あう噺家で、持ちネタは寄席で掛ける10~15分程度の噺ばかり。噺の中に混ぜるクスグリは何故か横文字を含んだものが多く、明治生まれのお爺さんが大真面目な顔をしてアナクロともシュールとも言える不思議な空気を高座から醸し出していました。
どケチなことでも有名だった留さん文治ですが、その人柄は誰からも慕われれていたそうでして、あの堅物の三遊亭圓生も慕っていた一人だったとか。ちなみに圓生の天敵であった彦六の正蔵師とこの九代目文治師が稲荷町の「長屋が隣どうしだった」ことは有名ですが、住む長屋が隣であったということで、「部屋が隣どうしだった」ということではありません。Wikipediaの記述は誤っています。
さて、その九代目桂文治師の墓参りです。昨日、小雨の降る中、千代田線に乗車し「根津」の駅で下車。交差点から言問通りを東に歩き5分ほどの場所にある「玉林寺」が墓所になります。昨年12月には正岡容の墓参りで訪れており、今回ここに来るのは2回目。前回の訪問で場所は確かめておきましたので、迷うことなく九代目桂文治師の墓へと向かいます。本堂の左手、正岡容の句碑がある所から先に進むと地蔵菩薩の並ぶ石段があり、登ってすぐ右手に正岡容の墓があります。目指す九代目文治師の墓はこの墓地の一番奥にあり、墓の間をずっと歩いて、一番奥(北西側)の宗善寺との境のブロック塀の中ほどに「有善院仙巌貞壽大姉」と正面に刻まれたグレーの御影石の墓が建ちます。(以下の画像はクリックすると大きな画面で見られます)
これだけではどなたの墓か分かりませんが、墓石右側には「昭和三十年十月八日建立 九代目翁家さん馬」との文字が読み取れ、この墓が九代目桂文治師の家の墓だと分かりました。しかし、墓石の正面になぜ、女性の方の戒名が刻まれているのでしょう。この女性は九代目文治師の身内の方、ひょっとして母親なのでしょうか。何本か並ぶ卒塔婆を見ると「桂嘯院文翁治道居士」という文字がありこれが師の戒名だと分かります。
「嘯」という見慣れない文字は、同じ墓地にある墓の正岡容の戒名でも使われていました。この寺の住職がこの文字を使うのが好きだとか? また別の卒塔婆には「噺翁清道信士」との戒名があり、これは2008年に亡くなった養子である本名高安清、十代目(十一代目とも)翁家さん馬師の卒塔婆で間違いないでしょう。よくよく考えてみると「噺」という字は「国字」で、ネットで調べると「音読み」は無いそうです。果たしてこの戒名はどう読めば良いのだろう。さらに下の方を見ると、卒塔婆を納めた方の名前で「桂文治」師と「桂右團治」師の名がありました。九代目と先代・当代文治では、同じ「桂」でも系統が全く違うのですが、由緒ある「文治」の名を継ぐ者としての敬意でこの卒塔婆を納めたのでしょう。
雨が少し強くなってきました。根津は先年亡くなった談志師も住む町でした。談志師はジーン・ケリーが好きだったそうだな、そんなことを考えながら、駅へと向かいます。
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