古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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四代目橘家圓喬と三代目柳家小さんの墓参りにゆく ― 2014年11月27日 19:21
2年前程から昭和の名人ゆかりの場所へ訪ねることにすっかり凝ってしまった私。今回は、昭和の名人だけでは飽き足らず、明治・大正期の名人の墓前に参ろうと思い立ちます。「東京かわら版」の今月の暦のページには、主な落語家の誕生日と命日が記載されており、11月号のそれを見ると、22日が四代目橘家圓喬、29日が三代目柳家小さんの命日だと分かりました。さらにネットで調べるとこの2人の墓は同じ寺にあり、豊島区南池袋にある「法明寺」という日蓮宗の寺だとの事。これは行ってみようと、私の趣味の虫がうずきます。はたして故人の霊を慰めようという信仰心があるのだか。
先日このブログでも記したよう、22日は文京区にある談志の墓参りをしたのですが、そのあと電車を乗り継ぎ、この「法明寺」のある南池袋まで移動します。私は子供の頃、親から「墓参りの“はしご”をしてはいけない」との教育を受けています。なんでも故人が嫉妬するからだとのことですが、相手は面識もない赤の他人でこちらが勝手に押しかけるだけですし、当方にも日程や交通費の都合があります。まあ、構わないということにしておきましょう。
都電荒川線に乗って「鬼子母神前」にて下車。はて、駅名は「きしぼじんまえ」だが「きしもじん」という語も良く聞く。どちらが正しいのだろう。私は落語趣味なぞやっているくせに言語に関しては全く無知です。ネットで調べると以下の事が分かりました。漢字の音読みには、漢音・呉音・唐音・慣用音とあり、仏教用語は通常「呉音」で読む。「母」の字は慣用音で「ぼ」と読み、呉音で「も」と読む。従って「きしもじん」と読む方が正しい、こんな説明をとあるサイトで見つけました。ちなみにこれから立ち寄る雑司ヶ谷鬼子母神堂のサイトのURLも"http://www.kishimojin.jp/"です。
都電の駅からあるいてすぐの所にY字路。ここの左側に「ひなの郷」という店があり、ここが笑点で好楽師がよく話題にしている、師の娘さんが経営するたいやき屋です。Y字路を右に歩き3分ほどの場所にあるのが、雑司ヶ谷鬼子母神堂。「鬼子母神」といえば日蓮宗ですが、その通り、ここ鬼子母神堂は墓参りに訪ねる日蓮宗の寺「法明寺」の一部分、飛地境内だとのこと。
鬼子母神堂の裏手から200mほど歩くと法明寺の山門があります。目指す墓地はこの山門の先ではなく、山門の手前を左手に進んですぐの所。入口より入ると、お花や線香を扱う建物があり、ここで四代目圓喬と三代目小さんの墓の場所を伺います。女性の方が簡単な地図をみせてくれ、場所はだいたい分かりました。この墓地はかなり広く、しかも昔の墓地らしく通路は迷路のように複雑で、案内なしにいきなり飛び込んでも、まず目的の墓は見つからないでしょう。
まずは四代目橘家圓喬。落語ファンならご存知の通り、昭和の名人である志ん生、八代目文楽、圓生が揃って「最高の名人」と語るほどの大名人。特に「鰍沢」を演じる際のリアリズムは伝説とさえなっています。亡くなったのは大正元(1912)年11月22日。訪ねた日が没後102年目。せっかくなら切り良く没後百年の時とかに訪れたかったものだ。さてその墓ですが、墓石には「橘家圓喬之墓」と刻まれています。高さ2mはほどもあり、墓石というよりも石碑のように見えます。(下写真をクリックすると大きな画像で見られます)。正面左下の方に「筆もって月と咄や冬の雪」の句が読み取れます。墓の面積は大きく3m四方ほどもあるでしょうか。はたしてこの墓は今はどなたが守っているのでしょう。もし個人で管理しているとするならば、こんな都心の寺で費用面でも大変なのではと無粋ながらも思ってしまいました。
続いて三代目柳家小さんの墓参りです。これまた落語ファンになら説明もする必要のない名人で、「らくだ」「宿屋の富」「青菜」など数多くの上方落語を江戸・東京風に直して積極的に取り入れ、またそれらは現在の多くの噺家たちにも脈々と受け継がれています。夏目漱石「三四郎」の中での語られる以下のセリフも良く知られたところ。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」。
本名は「豊嶋銀之助」。この墓地があるのは「豊島区」であり、また、その昔桓武平氏の豊島氏がこの付近一帯を治めていたそうですが、その「豊島」と関係があるのでしょうか。亡くなったのは昭和5(1930)年11月29日で間もなく没後84年目になります。三代目小さんの墓は、広い墓地の一番奥の方にあり、なんども細かい右折、左折を繰り返しながらたどり着きました。ごく一般的な四角い墓石に「豊嶋家之墓」と刻まれています。墓の敷地内に墓誌が三基あり、左側の墓誌の中央に「豊島銀之助」「妻 さだ」と刻まれています。あれ? 「嶋」なのか「島」なのか? 一番新しい墓誌には数年前の年月日が刻まれた故人の名もあり、いまでも三代目小さんの子孫の方がこの墓を守っておられるようです。「豊島銀之助」などの名がある一番古い墓誌は中央縦方向に大きくヒビが入っていました。人は故人の名を末永く残そうと石に名を刻むのですが、墓誌が出来てまだ百年と経っていないのにこの様です。石もまた永遠ではありません。
なんだか、慰霊というよりもスタンプ・ラリーでもしているかのような私の墓参り趣味です。墓参りすることがかえって不謹慎なような気もするのですが。さて、今度は誰の墓参りに行こうか。「東京かわら版」を見ながら考えています。
先日このブログでも記したよう、22日は文京区にある談志の墓参りをしたのですが、そのあと電車を乗り継ぎ、この「法明寺」のある南池袋まで移動します。私は子供の頃、親から「墓参りの“はしご”をしてはいけない」との教育を受けています。なんでも故人が嫉妬するからだとのことですが、相手は面識もない赤の他人でこちらが勝手に押しかけるだけですし、当方にも日程や交通費の都合があります。まあ、構わないということにしておきましょう。
都電荒川線に乗って「鬼子母神前」にて下車。はて、駅名は「きしぼじんまえ」だが「きしもじん」という語も良く聞く。どちらが正しいのだろう。私は落語趣味なぞやっているくせに言語に関しては全く無知です。ネットで調べると以下の事が分かりました。漢字の音読みには、漢音・呉音・唐音・慣用音とあり、仏教用語は通常「呉音」で読む。「母」の字は慣用音で「ぼ」と読み、呉音で「も」と読む。従って「きしもじん」と読む方が正しい、こんな説明をとあるサイトで見つけました。ちなみにこれから立ち寄る雑司ヶ谷鬼子母神堂のサイトのURLも"http://www.kishimojin.jp/"です。
都電の駅からあるいてすぐの所にY字路。ここの左側に「ひなの郷」という店があり、ここが笑点で好楽師がよく話題にしている、師の娘さんが経営するたいやき屋です。Y字路を右に歩き3分ほどの場所にあるのが、雑司ヶ谷鬼子母神堂。「鬼子母神」といえば日蓮宗ですが、その通り、ここ鬼子母神堂は墓参りに訪ねる日蓮宗の寺「法明寺」の一部分、飛地境内だとのこと。
鬼子母神堂の裏手から200mほど歩くと法明寺の山門があります。目指す墓地はこの山門の先ではなく、山門の手前を左手に進んですぐの所。入口より入ると、お花や線香を扱う建物があり、ここで四代目圓喬と三代目小さんの墓の場所を伺います。女性の方が簡単な地図をみせてくれ、場所はだいたい分かりました。この墓地はかなり広く、しかも昔の墓地らしく通路は迷路のように複雑で、案内なしにいきなり飛び込んでも、まず目的の墓は見つからないでしょう。
まずは四代目橘家圓喬。落語ファンならご存知の通り、昭和の名人である志ん生、八代目文楽、圓生が揃って「最高の名人」と語るほどの大名人。特に「鰍沢」を演じる際のリアリズムは伝説とさえなっています。亡くなったのは大正元(1912)年11月22日。訪ねた日が没後102年目。せっかくなら切り良く没後百年の時とかに訪れたかったものだ。さてその墓ですが、墓石には「橘家圓喬之墓」と刻まれています。高さ2mはほどもあり、墓石というよりも石碑のように見えます。(下写真をクリックすると大きな画像で見られます)。正面左下の方に「筆もって月と咄や冬の雪」の句が読み取れます。墓の面積は大きく3m四方ほどもあるでしょうか。はたしてこの墓は今はどなたが守っているのでしょう。もし個人で管理しているとするならば、こんな都心の寺で費用面でも大変なのではと無粋ながらも思ってしまいました。
続いて三代目柳家小さんの墓参りです。これまた落語ファンになら説明もする必要のない名人で、「らくだ」「宿屋の富」「青菜」など数多くの上方落語を江戸・東京風に直して積極的に取り入れ、またそれらは現在の多くの噺家たちにも脈々と受け継がれています。夏目漱石「三四郎」の中での語られる以下のセリフも良く知られたところ。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」。
本名は「豊嶋銀之助」。この墓地があるのは「豊島区」であり、また、その昔桓武平氏の豊島氏がこの付近一帯を治めていたそうですが、その「豊島」と関係があるのでしょうか。亡くなったのは昭和5(1930)年11月29日で間もなく没後84年目になります。三代目小さんの墓は、広い墓地の一番奥の方にあり、なんども細かい右折、左折を繰り返しながらたどり着きました。ごく一般的な四角い墓石に「豊嶋家之墓」と刻まれています。墓の敷地内に墓誌が三基あり、左側の墓誌の中央に「豊島銀之助」「妻 さだ」と刻まれています。あれ? 「嶋」なのか「島」なのか? 一番新しい墓誌には数年前の年月日が刻まれた故人の名もあり、いまでも三代目小さんの子孫の方がこの墓を守っておられるようです。「豊島銀之助」などの名がある一番古い墓誌は中央縦方向に大きくヒビが入っていました。人は故人の名を末永く残そうと石に名を刻むのですが、墓誌が出来てまだ百年と経っていないのにこの様です。石もまた永遠ではありません。
なんだか、慰霊というよりもスタンプ・ラリーでもしているかのような私の墓参り趣味です。墓参りすることがかえって不謹慎なような気もするのですが。さて、今度は誰の墓参りに行こうか。「東京かわら版」を見ながら考えています。
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