【落語はろー・データ編】公開中(ここをクリック)

古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。

 
【演芸とりどり掲示板】(http://koudanroom.bbs.fc2.com/)

 

志ん朝師十三回忌と矢来町訪問2013年10月02日 21:28

 このページをご覧の方になら申すまでもないでしょうが、昨日は古今亭志ん朝師の十三回忌でした。最高の名人の死で落語界・落語ファンの喪失したものはあまりに巨大でしたが、私にとっても志ん朝師が亡くなって落語を聴く情熱が半分くらい失せたように思います。
 昨年のこの日、美濃部家の菩提寺である文京区小日向の「還国寺(げんこくじ)」に初めて訪ねこのブログにも記しました。そして今年も命日に合わせて墓参りをすることにします。私の父親は14年前に亡くなっていますが、自分の父親でも命日の当日に墓参りするなんて事はしていません。肉親よりも贔屓の落語家が大事。親が死んでもなお親不孝な息子です。

美濃部家の墓

 正午を少し過ぎた時分、地下鉄有楽町線・江戸川橋駅から歩いて5分ほどの場所にある還国寺を訪ねます。十三回忌だからと特別な事もなく寺はひっそりとしてます。美濃部家の墓へ。花立にはこれ以上詰め切れないというくらいのふんだんの花が飾られ、ワンカップのお酒が供えられていました。あの世でなら肝臓の具合を気にせずお酒を楽しめる事でしょう。私のようなよそ者が長居する所ではないので、手を合わせて写真を3枚ばかり撮り早々に寺から立ち去ります。
 ついでの情報で、還国寺の前の道を東へ200メートルほど進んだ信号を左に折れ、坂道を上った突き当りの家が昨年亡くなった中村勘三郎さんの居宅とのこと。

 十三回忌の墓参りをした後は、矢来町のかつての志ん朝師の邸宅を訪ねます。江戸川橋から最寄駅である神楽坂駅までは約1キロ。遠回りをして地下鉄で乗り継いで行くまでもありません。歩いてゆきます。
 例によって事前に国会図書館で過去の住宅地図を調べてきました。(下画像をクリックすると大きな画像で見られます)。

矢来町地図

 この地図は2001年発行のもので、12年前ですからそれほどに現状と違う訳でもありません。周囲の民家・アパート・マンションと比較しても、その豪邸の大きさが分かります。下世話ですが、どのくらいの大きさか定規をあてて計算してみます。間口が約20メートル、奥行は約60メートルで、面積は約1200平方メートル、ごく大雑把に見積もって約360坪と算出できました。
 赤で示した部分「おふぃす古今亭・矢来亭・美濃部」と記されています。「美濃部」はもちろん志ん朝師の姓、「おふぃす古今亭」は個人事務所である事が分かりますが、「矢来亭」とは何か。志ん朝師が自宅の一部を落語会の会場としていたなどという話はついぞ聞きません。
 目を移して、志ん朝宅の南西(左下)に「色川」と記された家が2軒並んでいます。そうですね。作家の色川武大さんがかつて住んでいた場所で間違いないでしょう。さらに志ん朝宅に北東(右上)に「峰竜太」の文字が。当時1週間の全部の曜日にレギュラー番組を持っていたというタレントの峰竜太・海老名みどり夫妻が1995年に建てた豪邸で、志ん朝一家とも親しく付き合っていたようです。

 さて、かつての志ん朝の居宅は今はどうなったか訪ねてみます。神楽坂の駅から新潮社のビルへ。クルマが1台やっと通れる程度の細い道を2度ばかり曲がって、お目当ての場所にたどり着きました。

志ん朝旧邸宅

 邸宅は南側と北側両方が道路に面していまして、北側がメインの玄関になります。この土色の和風の塀は、写真やテレビの映像でも何度か見たことのあるものです。掲げられた表札の名は「美濃部」ではありません。志ん朝師が亡くなって遺された家族は矢来町の邸宅を離れたとネットの噂で聞きましたが事実でした。
 南側の裏口へまわって「矢来亭」の謎が解けました。木製の扉があってその脇には集合住宅用のポストが5つ並んでおり、上に「矢来亭」と書かれています。「矢来亭」とは賃貸マンションの名だったのです。あまりに大きな邸宅でさすがに持て余したのか、邸の南側の一部をマンションとして貸していたのです。ひょっとしたら志ん朝師が弟子や落語関係者、親しい人などを住まわすために用意した住居だったのかもしれません。
 家へ帰ってネットで調べてみると次のような情報が出てきました。

http://www.ochanomizu-chintai.com/rent/data6656.html

 間取りは1LDKで家賃は月14万とのこと。志ん朝師のかつての居宅に住むなんて、ファンならば至福の事でしょうね。
 ここから大江戸線の牛込神楽坂駅へは歩いて5分ほど。この線のこの区間が開通したのは志ん朝師が亡くなる前年の2000年12月でした。はたして志ん朝師は何回この駅を利用したのでしょうか。

小遊三師の聖火リレー2013年10月06日 22:24

 今年も10月になりTBSラジオ「らんまんラジオ寄席」の放送が始まりました(聴けない地域の方ごめんなさい)。先日このブログにも記しましたよう、今回の放送は9月22日に赤坂TBSのスタジオ内で公開収録された音で、私もその場にいました。裏話を申しますと、本編後の小遊三師のインタビューで今月20日の日曜日に西新宿で開かれる「芸協らくご祭り」について語っていますが、この日は「ラジオ寄席」の次回の公開録音が行われる日でもあります。インタビュアーの赤荻さんはこの公開録音の件についても触れていたのですが、その部分はキレイにカットされていました。

 昭和39年の東京オリンピックで当時山梨県内の高校生だった小遊三師が、聖火リレーのランナーとして走ったことは、今回の放送でも紹介されてましたし、自身でもあちこちでネタにしています。噺家さんでも高座で過去の自慢話をする方がよくいらっしゃいますが、小遊三師の場合はその自慢が鼻につきません。裏表のない天性の陽気さが嫌味を感じさせないのでしょう。
 聖火リレーを報じた当時の地元紙にも載ったとのことで、小遊三師は今でもその新聞を大切に保存しているとも語っています。興味を持つと徹底的に調べたくなるのが私の性癖。国会図書館で昭和39年の山梨の地方紙「山梨日日新聞」を調べてきました。
 ギリシャで採火された聖火は各国を経由して沖縄へ。9月9日、4つのコースに分かれて国内の聖火リレーは始まりました。聖火が山梨県を通過したのは、10月6日から7日にかけてで甲州街道を東進し東京を目指します。
 以下の画像はその直線の10月4日の山梨日日新聞のページからです(クリックすると大きな画像で見られます)。

聖火リレー01

 これを拡大したのが下の画像です(クリックすると大きな画像で見られます)。

聖火リレー02

 小遊三師の本名、「天野幸夫」は確かにありました。「新聞に載った」といっても走っている姿の写真が掲載されたとかいう訳ではないようです。今や売れっ子でテレビにも新聞・雑誌にも頻繁に登場する小遊三師ですが、49年前の地方紙に載った小さな自身の名前に思いを馳せる、それほどに大きな思い出であり誇りなのでしょう。

何代目?2013年10月26日 02:53

 「落語はろー・データ編」はしばらく更新していませんが、今、「NHK東京落語会」のリスト作成のためのデータ整理で時間を費やしています。1984年までのデータは、2002年頃まで有名な落語コレクターであるHさんが公開していたデータが役に立ちます。1985年以後のデータは十年ほど前、国会図書館へ何度か足を運び「東京かわら版」のバックナンバーを見ながら情報を集めていたのですが、「かわら版」には「抜け」や掲載後の演者、演目の変更も多く完全な情報は得られませんでした。ところが最近になってNHKから発売されたCD全集で「東京落語会600回全記録」というリストが付録につき、さらに小学館から発売されたCDブック「東横落語会」で東京で開催されたホール落語を網羅した資料が掲載され、必要なデータは集まりました。これにCD・DVDの発売情報やテレビ・ラジオでのオンエア情報を付加し公開する予定です。10月中の公開はおそらく無理で11月にずれこむと思います。
 ところで、今月7日、古今亭志ん馬師が亡くなりました。55歳だったとのことでまだまだ活躍してほしい年齢でした。ネットで師匠の訃報のニュースをいろいろ眺めましたが、思っていた通り亡くなった師匠について「七代目」とするものと「九代目」とするものとが混在しています。なかには「七代目古今亭志ん馬死去。師匠はイジワル婆さんでお馴染みだった八代目古今亭志ん馬」などとワケノワカラヌ見出しのついた記事までありました。グーグルでヒット数をみると、落語協会からのリリースが「七代目」となっていたからか、七代目とする方が圧倒的に多かったようです。
 落語のデータを整理している身として問題になるのが、この「何代目」にするかとの点でして、まさに「東京落語会」のデータ整理でも頭を悩ませています。亡くなった志ん馬師についても、本人や協会が「七代目」と言っているのですから「七代目」とすべきだとは私も思うのですが、権威ある人達による厳密な調査によれば「九代目」となってしまいます。
 「九代目(俗にいう七代目)古今亭志ん馬」などという書き方をよくしますが、俗もなにも、落語という芸能は「俗」そのもののポジションに存在するのであり、「正確には(学問的には)“九代目“」などと尊大ぶる必要はないと、個人的には思うのです。
 といっておきながら私も現在作成中のリストでは、亡くなった志ん馬師については「九代目」と記す方針です。我ながら矛盾していると思いますが、 良く使われる表現を借りて「“記憶”では七代目。“記録”では九代目」ということでお茶を濁しておきましょうか。