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「移ろう」という事と「落語」2013年06月11日 03:40

 とある落語のデータがありまして、落語を視聴する人の世代で、20歳代以下は皆無といって良いのですが、30歳代から徐々に増え始め、40歳代から50歳代にかけては激増します。
 私は、ドンピシャ激増し始める40歳代半ばの世代なのですが、思い返せば私の子供の頃のと言えば「大正テレビ寄席」の最末期で、以後は落語が演じられる番組といえば「笑点」くらいしか無く、ほとんど落語という芸能に接する機会はありませんでしいた。幸いなことに20歳の時に大学で「ビデオで過去の名人の高座を視聴する」という講義を受けてしまったのが縁でドップリ落語に浸かってしまいましたが、ふつうの人はやはり40歳代以後に何らかの機会で落語を見てそれからハマる、という方が多いようです。
 ここで面白いのは、昭和30年代の落語黄金期、ラジオではどこの局でも落語を盛んに放送していた時代の世代はもう60歳代とか70歳代とかでしょうが、テレビでもラジオでも表舞台から姿を消したしまった後しか経験していない40歳代とか50歳代の世代でも落語ファンは着実に増えているという事です。
 過去に流行った物がその流行った世代の人の間で遺物のように伝えられる、その世代の人が絶えたらそのかつて流行った物も消えていく、というのではなく、ある世代以上になるとファンが突然増え、脈々と受け継がれてゆく。しかも「歌舞伎」や「能狂言」のように敷居が高くなく、あくまでも「大衆芸能」として存在する。世界的にみてもこんな芸能はあるでしょうか?
 40~50歳代といえば子供も成長してゆき、子供らが自分と違う流行物に接するのを目の当たりにする年代です。また常識や価値観でさえ自分ら世代とは違うと実感する事があります。幼い頃や若い頃は、今、目の前にある物が全てのような感覚に捕らわれますが、40歳代を越した大人は、それらが変化する物である事を知ります。
 もちろん現代、身分制度もなければ徒弟制度もなく花魁も横丁の隠居ももはや存在しません。濃密な地域コミュニティもとっくの昔に崩壊しました。歳を積み重ねるということの中で、自分らの生きてきた世代の事柄が思い出として蓄積されるだけではなくて、自分たちは直接関わりのなかった過去に生きた先人たちの体験してきた事、残してきた物に思いを馳せる。
 大げさにいえば「社会というものは移ろう」という事を歳を取るとともに実感していくなかで、自分の世代を突き抜けて、さらに過去の世代の人間の生き様を楽しむという、人間を眺める「幅」が出来るとのことではないのでしょうか。
 その社会の「移ろい」のなかで、人間のする事、考える事なんてものは基本的には変わらないものだなと発見して、妙にホッとしたりするのです。