古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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圓生とパンダが死んだ日 ― 2012年11月19日 00:55
私は朝食はクルマを少し走らせて外で食べる事が多いのですが、その出かけた足でふと図書館へ行きたくなり、我が家から車で15分程の市立中央図書館へ赴きました。三遊亭圓生師の逝去時の新聞記事を見てみたくなったからです。実は十何年か前にも新聞の縮刷版をコピーし部屋のファイルのどこだかに挟んだはずなのですが、どこにしまったか忘れてしまい、探すのならもう一度コピーし直した方が手っ取り早いと思った次第です。逝去翌日の朝日・読売・毎日の記事を見ましたが、なかなか興味深い事が分かります。
総武線津田沼駅前にある複合商業施設「サンペデック」での後援会の集会で一席演じたのちに倒れ、近くの病院で亡くなった事になっています。記事によれば、施設内にある結婚式場を使って行われた「後援会の集い」が圓生師最後の口演が行われた場であった事が分かります。この後援会の集いには当時の習志野市長も出席していたとのこと。亡くなったのはサンペデックから1kmほど離れた「三橋整形外科耳鼻科病院」ですが、当時この病院には内科も外科もなく、心臓発作で倒れた圓生師がなぜこの病院へ運ばれたのは不明。単に近かったからかもしれませんが。
落語ファンの間では今でも「圓生はパンダと同じ日に死んだ」と語り草になっていますが、パンダのランランが死んだのは9月4日の未明(午前1時24分)で正確に言えば翌日です。4日の朝刊には各紙でパンダが死んだ記事が掲載されていますが、午前1時24分に死んでその日の朝刊に大きく載っているとはちょっと驚きです。おそらくこの記事が間に合ったのは最終版(朝日は13版、読売・毎日は14版)のみで、多摩地域や千葉・埼玉に配達される最終版以前の版には掲載されなかったものと思われます。
ちなみに私はこの時中学1年生。当時、パンダが死んだ事が大きなニュースになったのは良く覚えていますが、圓生師の事は全く知りませんでした。この頃落語で知っている事と言えば「笑点」関係のみで、「三遊亭圓生」という噺家は名前を聞いた覚えもありませんでした。初代三平師匠や彦六師匠が亡くなった時の事は覚えています。やはりテレビの影響が大きかったのですね。長くなるので続きは明日以降記します。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
総武線津田沼駅前にある複合商業施設「サンペデック」での後援会の集会で一席演じたのちに倒れ、近くの病院で亡くなった事になっています。記事によれば、施設内にある結婚式場を使って行われた「後援会の集い」が圓生師最後の口演が行われた場であった事が分かります。この後援会の集いには当時の習志野市長も出席していたとのこと。亡くなったのはサンペデックから1kmほど離れた「三橋整形外科耳鼻科病院」ですが、当時この病院には内科も外科もなく、心臓発作で倒れた圓生師がなぜこの病院へ運ばれたのは不明。単に近かったからかもしれませんが。
落語ファンの間では今でも「圓生はパンダと同じ日に死んだ」と語り草になっていますが、パンダのランランが死んだのは9月4日の未明(午前1時24分)で正確に言えば翌日です。4日の朝刊には各紙でパンダが死んだ記事が掲載されていますが、午前1時24分に死んでその日の朝刊に大きく載っているとはちょっと驚きです。おそらくこの記事が間に合ったのは最終版(朝日は13版、読売・毎日は14版)のみで、多摩地域や千葉・埼玉に配達される最終版以前の版には掲載されなかったものと思われます。
ちなみに私はこの時中学1年生。当時、パンダが死んだ事が大きなニュースになったのは良く覚えていますが、圓生師の事は全く知りませんでした。この頃落語で知っている事と言えば「笑点」関係のみで、「三遊亭圓生」という噺家は名前を聞いた覚えもありませんでした。初代三平師匠や彦六師匠が亡くなった時の事は覚えています。やはりテレビの影響が大きかったのですね。長くなるので続きは明日以降記します。
「圓生とパンダが死んだ日」と題して(矢野誠一氏の著書名のパクリ)、逝去時の新聞記事をPDFファイルをまとめましたので、ぜひご覧ください→【ここをクリック】
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