古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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五代目三遊亭圓楽師の墓参りに行く ― 2015年12月09日 01:15
もうだいぶ経ってしまいましたが、10月29日は五代目三遊亭圓楽師の命日でした。先々月の命日の日に墓参に行きまして、今さらながらにその時の模様を記事にします。師の墓は、実家である足立区の寺にあります。寺は東武スカイツリーライン(この線名なんとかならないか)竹ノ塚駅から歩いて20分ほどの場所。例によってこの付近に立ち寄る用事を無理やり組み込み墓参りに行きました。
竹ノ塚駅西口から北へ1kmほどいったこの地は「伊興寺町」と呼ばれ12軒の寺が集まりますが、なんでも関東大震災で被災した寺が昭和初期に計画的に移転してできた寺町だそう。先代圓楽師の眠る墓は「易行院(いぎょういん)」、先代林家三平師は「常福寺」、そして落語や講談のモデルとなった塩原太助(多助)の墓は「東陽寺」に。この3軒の寺は歩いて30秒ほどの目と鼻の先にあります。(以下の画像はクリックすると大きな画像で見られます)
さて、今年9月の初代三平師の命日にもここ伊興寺町へ来て、先代圓楽師の墓の場所を確認していますから迷う事はありません。易行院の門をくぐると本堂横に六地蔵があり、その背後に「助六の塚」と刻まれた石碑と、上部が大きく欠けた石碑(助六と揚巻の比翼塚)が並んでいます。「助六」といえば数多ある歌舞伎演目でも一二を争う代表的な狂言ですが、有名になりすぎてこんなモニュメント的なものが出来たのでしょう。
目的の先代圓楽師の墓は、墓地の一番奥に。墓石、柵、墓誌など黒御影石で統一された大きな墓です。師の墓の周りに他の墓は無くポツンとしています。この日は亡くなってちょうど6年目。七回忌ということで、きれいな花が供えられています。墓石を見ると刻まれた文字は「円楽之墓」。はて「圓」ではなく「円」という字を使ったことに師の意図は何かあるのでしょうか。ちなみにこの墓は1988年、師の生前に作られた墓です。
左手には墓誌が建ち「光岳院情誉円楽寛海居士」と師の戒名が刻まれています。「情」「誉」とは「人情噺の誉れ高い」との意を含むのでしょうか。「寛海」は師の下の名ですね。
墓石の背後の卒塔婆を見てみると「六代目三遊亭円楽」「三遊亭好楽」「五代目圓楽門弟一同」「桂歌丸」と納めた噺家さんの名が並びます。おそらく七回忌の法要があった今日建てられたものではないでしょうか。
師の墓石の右側には高さ1mほどの観音像が建てられており、像の下の台石に「澄空院信誉清光大姉 俗名 吉河信子 行年二十三才 一九七二年六月十四日 ニューデリーにて散華す」と刻まれています。師の妹はかつて日本航空の客室乗務員をしており、ニューデリーでの墜落事故で亡くなっています。
先ほども記したよう、寺の墓地の一番奥に建つこの墓の周りには他の墓は無く、なんだか孤立しているようにも見えます。或いは一人毅然としているのか。妙にそんなことを気にかけながら、墓を後にしました。
竹ノ塚駅西口から北へ1kmほどいったこの地は「伊興寺町」と呼ばれ12軒の寺が集まりますが、なんでも関東大震災で被災した寺が昭和初期に計画的に移転してできた寺町だそう。先代圓楽師の眠る墓は「易行院(いぎょういん)」、先代林家三平師は「常福寺」、そして落語や講談のモデルとなった塩原太助(多助)の墓は「東陽寺」に。この3軒の寺は歩いて30秒ほどの目と鼻の先にあります。(以下の画像はクリックすると大きな画像で見られます)
さて、今年9月の初代三平師の命日にもここ伊興寺町へ来て、先代圓楽師の墓の場所を確認していますから迷う事はありません。易行院の門をくぐると本堂横に六地蔵があり、その背後に「助六の塚」と刻まれた石碑と、上部が大きく欠けた石碑(助六と揚巻の比翼塚)が並んでいます。「助六」といえば数多ある歌舞伎演目でも一二を争う代表的な狂言ですが、有名になりすぎてこんなモニュメント的なものが出来たのでしょう。
目的の先代圓楽師の墓は、墓地の一番奥に。墓石、柵、墓誌など黒御影石で統一された大きな墓です。師の墓の周りに他の墓は無くポツンとしています。この日は亡くなってちょうど6年目。七回忌ということで、きれいな花が供えられています。墓石を見ると刻まれた文字は「円楽之墓」。はて「圓」ではなく「円」という字を使ったことに師の意図は何かあるのでしょうか。ちなみにこの墓は1988年、師の生前に作られた墓です。
左手には墓誌が建ち「光岳院情誉円楽寛海居士」と師の戒名が刻まれています。「情」「誉」とは「人情噺の誉れ高い」との意を含むのでしょうか。「寛海」は師の下の名ですね。
墓石の背後の卒塔婆を見てみると「六代目三遊亭円楽」「三遊亭好楽」「五代目圓楽門弟一同」「桂歌丸」と納めた噺家さんの名が並びます。おそらく七回忌の法要があった今日建てられたものではないでしょうか。
師の墓石の右側には高さ1mほどの観音像が建てられており、像の下の台石に「澄空院信誉清光大姉 俗名 吉河信子 行年二十三才 一九七二年六月十四日 ニューデリーにて散華す」と刻まれています。師の妹はかつて日本航空の客室乗務員をしており、ニューデリーでの墜落事故で亡くなっています。
先ほども記したよう、寺の墓地の一番奥に建つこの墓の周りには他の墓は無く、なんだか孤立しているようにも見えます。或いは一人毅然としているのか。妙にそんなことを気にかけながら、墓を後にしました。
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