古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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人形町末広跡へ行く ― 2015年08月05日 20:57
先日夕刻、時間に少し余裕がありましたので地下鉄人形町駅で下車し、落語定席の寄席であった人形町末広の跡地へ行ってみることにしました。ネットの情報でかつての所在地は分かっていたのですが、なぜかなかなか現地へ行ってみようと思い立ちませんでした。
人形町末広というと、三遊亭圓生がしばしば独演会を開いていた場であり、その音源の一部はアポロンというメーカーからカセットテープで発売されていました。しかしこのメーカーは潰れてしまったようで、以後は他から発売されていません。是非CDとして再び世に出して欲しいものですが、ひょっとして原盤が行方不明にでもなっているのでしょうか。
その録音の中でこの寄席を知る上で興味深いものがあります。「落語はろー・データ編」リスト、「お化け長屋・テイク1」の冒頭で、師は以下のように話しています。
エー、いつも独演会で別にサービスがこざいませんので、エー何かと思いまして、北千住から人形町まで地下鉄を開通しました。エー、本当は明日からというのを独演会があるから是非今日にしてくれという。これは独演会のサービスでございます。
これが収録されたのは、1962(昭和37)年5月31日。ちょうど地下鉄日比谷線が北千住から人形町まで開通した日でした。独演会のあった日と地下鉄開通の日が偶然に重なった。またその時の録音が残っている。ちょっとこれは面白いと思います。
次に「ちきり伊勢屋(上)・テイク1」。1969年12月27日の録音。人形町末広での最後の圓生独演会で、この口演では冒頭で
エー、末広もいよいよもう、来年の20日までで最後でございまして、エーいろいろ事情がありまして、移転をいたします。エー、あとは麹町の方でご主人がマンションを拵えるそうで。マンションを拵えないで寄席を拵えてくれる方がよかったんですけれど、やはりそういう訳にもいきませんで、
歴史ある寄席という拠点を失ってしまう無念さを強く感じさせます。こうして長年噺家やファンに愛され続けてきた人形町末広は、1970(昭和45)年1月20日の興行を最後に閉場しました。最後に高座へ上がったのは五代目古今亭今輔だったとのこと。
上画像(クリックすると大きな画像で見られます)は1965(昭和40)年に発行された住宅地図の人形町交差点付近です。赤丸で囲んだ場所が人形町末広。前の道路にはまだ都電が走っていました。走っていたのは新宿駅前と水天宮を結ぶ13系統と千住四丁目と水天宮を結ぶ21系統。1969年10月には廃止になっています。
ということで、跡地へ行ってきたわけです。地下鉄の人形町交差点側出口を出てすぐ見える、「読売IS」という会社のビルが人形町末広の跡地です。
その跡地のビルの隣には歌舞伎「与話情浮名横櫛」でお馴染みの「玄冶店」の跡(下写真)の石碑があります。この名は幕府の医師であった「岡本玄冶」の拝領屋敷があったことから付けられたとのこと。
さて、嬉しいことに「読売IS」のビルの入り口脇の下に「寄席人形町末広跡」という石碑があり、その上のガラスには解説が書かれています。以下その解説。
この地は、幕末の慶応3年(1867)から昭和45年(1970)までの103年間、人形町末広として多くの人に親しまれる落語定席でした。客席すべて畳敷きというのが特徴で、マイクなしでも客席の隅々まで演者の声が聞こえる造り等、今でも伝説の寄席と称されています。平成16年(2004)年に広告会社「読売IS」本社ビルが建築され、現在に至っています。
人形町末広が閉場してすでに45年。東京という都市の変化に伴って消えた「灯」をいつまでも語り継いでもらいたいものです。
人形町末広というと、三遊亭圓生がしばしば独演会を開いていた場であり、その音源の一部はアポロンというメーカーからカセットテープで発売されていました。しかしこのメーカーは潰れてしまったようで、以後は他から発売されていません。是非CDとして再び世に出して欲しいものですが、ひょっとして原盤が行方不明にでもなっているのでしょうか。
その録音の中でこの寄席を知る上で興味深いものがあります。「落語はろー・データ編」リスト、「お化け長屋・テイク1」の冒頭で、師は以下のように話しています。
エー、いつも独演会で別にサービスがこざいませんので、エー何かと思いまして、北千住から人形町まで地下鉄を開通しました。エー、本当は明日からというのを独演会があるから是非今日にしてくれという。これは独演会のサービスでございます。
これが収録されたのは、1962(昭和37)年5月31日。ちょうど地下鉄日比谷線が北千住から人形町まで開通した日でした。独演会のあった日と地下鉄開通の日が偶然に重なった。またその時の録音が残っている。ちょっとこれは面白いと思います。
次に「ちきり伊勢屋(上)・テイク1」。1969年12月27日の録音。人形町末広での最後の圓生独演会で、この口演では冒頭で
エー、末広もいよいよもう、来年の20日までで最後でございまして、エーいろいろ事情がありまして、移転をいたします。エー、あとは麹町の方でご主人がマンションを拵えるそうで。マンションを拵えないで寄席を拵えてくれる方がよかったんですけれど、やはりそういう訳にもいきませんで、
歴史ある寄席という拠点を失ってしまう無念さを強く感じさせます。こうして長年噺家やファンに愛され続けてきた人形町末広は、1970(昭和45)年1月20日の興行を最後に閉場しました。最後に高座へ上がったのは五代目古今亭今輔だったとのこと。
上画像(クリックすると大きな画像で見られます)は1965(昭和40)年に発行された住宅地図の人形町交差点付近です。赤丸で囲んだ場所が人形町末広。前の道路にはまだ都電が走っていました。走っていたのは新宿駅前と水天宮を結ぶ13系統と千住四丁目と水天宮を結ぶ21系統。1969年10月には廃止になっています。
ということで、跡地へ行ってきたわけです。地下鉄の人形町交差点側出口を出てすぐ見える、「読売IS」という会社のビルが人形町末広の跡地です。
その跡地のビルの隣には歌舞伎「与話情浮名横櫛」でお馴染みの「玄冶店」の跡(下写真)の石碑があります。この名は幕府の医師であった「岡本玄冶」の拝領屋敷があったことから付けられたとのこと。
さて、嬉しいことに「読売IS」のビルの入り口脇の下に「寄席人形町末広跡」という石碑があり、その上のガラスには解説が書かれています。以下その解説。
この地は、幕末の慶応3年(1867)から昭和45年(1970)までの103年間、人形町末広として多くの人に親しまれる落語定席でした。客席すべて畳敷きというのが特徴で、マイクなしでも客席の隅々まで演者の声が聞こえる造り等、今でも伝説の寄席と称されています。平成16年(2004)年に広告会社「読売IS」本社ビルが建築され、現在に至っています。
人形町末広が閉場してすでに45年。東京という都市の変化に伴って消えた「灯」をいつまでも語り継いでもらいたいものです。
コメント
_ (未記入) ― 2015年08月06日 14:34
懐かしい!人形町には買い物や食事に何度となく行っているのですが、甘酒横丁方面とは反対側にある末廣のことは忘れていました。末廣には無くなる前の1969年にNET(テレビ朝日)の演芸番組の公開録画に当選して2回行った記憶があります。入り口で下足番のおじさんに下足札を渡されたのと、畳敷きだったのでお尻と膝が痛かったのを覚えています。玄冶店の石碑も見ました。肝心の出演者では圓遊がいかにも芸人さんらしく洒脱だったのと上方から来た吾妻ひな子の三味線漫談が面白かったくらいしか記憶に残っていません。学生時代はそれほど落語に興味が無かったので、今思えば圓生の独演会に行っておけばと本当に後悔します。NETの番組は演芸通の馬場アナウンサーの司会と新宿末廣亭の支配人であったベレー帽姿の真山恵介さんの解説でした。
_ はろー ― 2015年08月07日 02:25
私も人形町は思い出のある町でして、今から25年ほど前、学生の頃、某飲食チェーン店でバイトをしており、バブルの頃で人手不足が深刻化していた中、人形町にあるそのチェーン店によく派遣されました。36時間連続労働なんという店長と良く働き良く語り合ったものです。その店も甘酒横丁の方でして、今回訪ねた人形町交差点の方はあまりよく知りませんでした。
人形町末広でのテレビの収録、NETでもあったのですね。TBSやNHKの番組の映像はよく知られており、今でもその一部は視聴することができます。時代は昭和40年代の前半。この人形町末広の閉鎖に合わせたように、この頃から急速にテレビ・ラジオでの演芸の番組が減っていったのではないでしょうか。
人形町末広でのテレビの収録、NETでもあったのですね。TBSやNHKの番組の映像はよく知られており、今でもその一部は視聴することができます。時代は昭和40年代の前半。この人形町末広の閉鎖に合わせたように、この頃から急速にテレビ・ラジオでの演芸の番組が減っていったのではないでしょうか。
_ たいへい ― 2015年08月10日 22:33
はじめまして。
人形町末広での圓生独演会はアポロンでカセット化されていましたが
この秋に初商品化音源も含めてCD16枚組で販売されるそうです。
人形町末広での圓生独演会はアポロンでカセット化されていましたが
この秋に初商品化音源も含めてCD16枚組で販売されるそうです。
_ はろー ― 2015年08月11日 08:38
情報ありがとうございます。
私の昨日発売の「サライ」という雑誌をみまして、この情報を知りました。
さっそくこのブログで記事にします。
私の昨日発売の「サライ」という雑誌をみまして、この情報を知りました。
さっそくこのブログで記事にします。
_ あ ― 2015年10月24日 18:24
アポロンの人形町以外のカセットもCD化されるとうれしいのですが。(一部はされているが)
_ はろー ― 2015年10月25日 09:08
アポロンから出ていた東横落語会の録音はCD化されていませんね。小学館のCDブックにも収録されませんでした。まさかマスターテープを紛失してしまったとか・・・。
_ じゅんたろー ― 2017年02月19日 21:55
人形町末広。懐かしいですね。
学生時代、何度か通いました。談志師匠の「芝浜」を聴き、涙しました。
私は、当時「芝浜」の噺の存在を知らず、初めて聴いたのですが、泣きました。
談志師匠が、国会議員になられる前でした。
圓生師匠の独演会も聴きました。
超満員で、休憩時間は、みんな立ち上がって休憩したもんです。
「ちきり伊勢屋」と「包丁」、そして、踊りを披露されました。
「この踊りは、寄席でするのは初めてで、これが最初で最後です」と話されました。
当時のパンフレットを、大事に持っています。
最終日のパンフレットも持っています。(最終日には行っていませんが)
今輔師匠がトリ(主任)と記されています。
下足札を「いの一番」をいただいたこともあります。
帰る時に、「はい、いの一番の方」と呼ばれた時には、妙に優越感を味わいました。
学生時代、何度か通いました。談志師匠の「芝浜」を聴き、涙しました。
私は、当時「芝浜」の噺の存在を知らず、初めて聴いたのですが、泣きました。
談志師匠が、国会議員になられる前でした。
圓生師匠の独演会も聴きました。
超満員で、休憩時間は、みんな立ち上がって休憩したもんです。
「ちきり伊勢屋」と「包丁」、そして、踊りを披露されました。
「この踊りは、寄席でするのは初めてで、これが最初で最後です」と話されました。
当時のパンフレットを、大事に持っています。
最終日のパンフレットも持っています。(最終日には行っていませんが)
今輔師匠がトリ(主任)と記されています。
下足札を「いの一番」をいただいたこともあります。
帰る時に、「はい、いの一番の方」と呼ばれた時には、妙に優越感を味わいました。
_ はろー ― 2017年02月23日 23:10
古き良き時代の寄席を知っているじゅんたろー様がうらやましい限りです。人形町末広はまさに昭和30年代の落語黄金期には欠かせない存在でした。三遊亭圓生師がめきめきと腕を上げ名人へとたどり着こうという頃。CDで今でもその時の音源を一部聴くことができますが、落語ファンとして身震いをするほどの感銘を受けます。人形町末広が閉鎖されたのは、同時期、落語は急速に大衆性を失なっていったことの一つの象徴だと思えます。
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