古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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五代目古今亭今輔の墓参りにゆく ― 2014年12月23日 14:58
五代目古今亭今輔が亡くなったのは1976(昭和51)年12月10日。先々週が命日でした。落語ファンならご存知のよう、先代今輔師といえば新作落語、そしてお婆さん落語。古典落語こそが「正統」な落語とするような落語ファンからの評価はあまり高くないようです。正直言いまして私もその考えに近く、たまに師の音源を聴きかえすことがありますが、中途半端な古臭さを感じてしまいます。古典落語には、時代を生き抜いてきた「力」というものがあるのですが、一世代・二世代前の新作落語にはなかなかそういう価値は見出せません。新作落語を演じる方で、高齢のお客の多い寄席で、客に受けやすい作品があるとそればかり演じる方がおられますが、それでは新しい世代のお客を開拓できないし、むしろ敬遠されてしまいます。新作落語を演るならば、古い物を大胆に捨てるという覚悟が必要なように思うのです。新作落語について思う事はまた後日、記します。
いうことで命日からは少々遅れましたが、今月13日、とある落語家さんの会へ向かう前に先代今輔師の墓参りにゆくことにします。墓所は、新宿区の顕性寺(けんしょうじ)。真言宗のお寺です。「顕」の字は正確には旧字体で「顯」と書きます。「日」の下に「幺」を二つ、さらにその下に「れんが」、難しい字です。ネットで寺の場所はすぐに分かりましたが、寺の墓地のどこに目的の墓があるのかは分かりません。グーグルアースで見ると、顕性寺の墓地はごく狭いので現地へ赴いて適当に探せばなんとかなるだろう。いつものようにお気楽な気持ちで墓参りに向かいます。
丸ノ内線の四谷三丁目で下車。駅出口を出て、細い路地を南に向かいます。この付近は「左門町」。そう、お岩稲荷がある町ですね。(以下の画像はクリックすると大きな画像でみられます)
一直線の路地をしばらく進むと、右手に「於岩稲荷田宮神社」があり、「日本講談協会」の奉納した幟が鳥居横に立ちます。玉垣には「中村勘三郎」「一龍斎貞山」の名が。もちろん十七代目と七代目でしょう。
この稲荷の斜め向かいに、なぜかもう一軒「お岩稲荷」があり、こちらは陽運寺という日蓮宗の寺。祟りを畏れて参るはずの稲荷が、なぜか縁結びの神様の社になっていました。
この通りをさらに1分ほど歩いた突き当りが、目的の「顕性寺」。2階建ての本堂の右側手前に4階建てのマンションが建ちます。おそらくこの寺の持ち物で、墓地も狭い都心の寺では税金がかからないとは言え、経営は難しいのでしょう。
本堂左手から墓地に入り、適当に墓石に刻まれた名を見てまわると、すぐに「鈴木家之墓」は見つかりました。が、「鈴木」といえば、その数では日本で1,2を争うありふれた苗字ですから、ここが目的の墓とは限りません。墓石の背後の卒塔婆を覗くと「六代目古今亭今輔」「桂歌丸」の文字が見えまして、確定できました。
3日前が命日ですので、花もまだみずみずしいまま。グレー系御影石の墓石の状態からしてこの墓は建ってからまだそれ程経過していないようです。おそらく先代今輔が亡くなった際に建てられた墓ではないでしょうか。卒塔婆を見ると「顕照院綜藝悟道居士」という文字が読み取れますが、これが師の戒名でしょう。
意欲的に新しい作品を作り続けてきた先代今輔。まさに新作落語に捧げた生涯と言って良いでしょう。師の活躍した時代とは違い、残念ながら、今の新作落語は高齢の方々から若い世代まで幅広く支持されているとは言えません。この墓の中で現在の、そしてこれからの新作落語をどのように見つめているのでしょうか。
いうことで命日からは少々遅れましたが、今月13日、とある落語家さんの会へ向かう前に先代今輔師の墓参りにゆくことにします。墓所は、新宿区の顕性寺(けんしょうじ)。真言宗のお寺です。「顕」の字は正確には旧字体で「顯」と書きます。「日」の下に「幺」を二つ、さらにその下に「れんが」、難しい字です。ネットで寺の場所はすぐに分かりましたが、寺の墓地のどこに目的の墓があるのかは分かりません。グーグルアースで見ると、顕性寺の墓地はごく狭いので現地へ赴いて適当に探せばなんとかなるだろう。いつものようにお気楽な気持ちで墓参りに向かいます。
丸ノ内線の四谷三丁目で下車。駅出口を出て、細い路地を南に向かいます。この付近は「左門町」。そう、お岩稲荷がある町ですね。(以下の画像はクリックすると大きな画像でみられます)
一直線の路地をしばらく進むと、右手に「於岩稲荷田宮神社」があり、「日本講談協会」の奉納した幟が鳥居横に立ちます。玉垣には「中村勘三郎」「一龍斎貞山」の名が。もちろん十七代目と七代目でしょう。
この稲荷の斜め向かいに、なぜかもう一軒「お岩稲荷」があり、こちらは陽運寺という日蓮宗の寺。祟りを畏れて参るはずの稲荷が、なぜか縁結びの神様の社になっていました。
この通りをさらに1分ほど歩いた突き当りが、目的の「顕性寺」。2階建ての本堂の右側手前に4階建てのマンションが建ちます。おそらくこの寺の持ち物で、墓地も狭い都心の寺では税金がかからないとは言え、経営は難しいのでしょう。
本堂左手から墓地に入り、適当に墓石に刻まれた名を見てまわると、すぐに「鈴木家之墓」は見つかりました。が、「鈴木」といえば、その数では日本で1,2を争うありふれた苗字ですから、ここが目的の墓とは限りません。墓石の背後の卒塔婆を覗くと「六代目古今亭今輔」「桂歌丸」の文字が見えまして、確定できました。
3日前が命日ですので、花もまだみずみずしいまま。グレー系御影石の墓石の状態からしてこの墓は建ってからまだそれ程経過していないようです。おそらく先代今輔が亡くなった際に建てられた墓ではないでしょうか。卒塔婆を見ると「顕照院綜藝悟道居士」という文字が読み取れますが、これが師の戒名でしょう。
意欲的に新しい作品を作り続けてきた先代今輔。まさに新作落語に捧げた生涯と言って良いでしょう。師の活躍した時代とは違い、残念ながら、今の新作落語は高齢の方々から若い世代まで幅広く支持されているとは言えません。この墓の中で現在の、そしてこれからの新作落語をどのように見つめているのでしょうか。
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