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今月の「落語研究会」の放送2014年05月01日 21:17

 4月26日にBS-TBSで放送された「落語研究会」の録画を先ほど見ていたのですが一点気付いたことがあります。番組の最後に数秒流れる次回の予告によると、今月30日の放送は午前3時から4時までの1時間の放送で雲助の「お初徳兵衛」の1席のみ。ご存知の通りこの番組はいつもなら2時間の放送枠で2~3席の高座がオンエアされます。長らく視聴していて1時間の放送で1席のみというのは恐らく初めてです。
 一方、CSのTBSチャンネルで今月3日に放送される分は2時間枠で、雲助「お初徳兵衛」の他に雲助「つづらの間男」、白酒「首ったけ」の3席がオンエアされるとのこと。CSはもちろん有料でスカパーと契約しないと見られません。BSで1時間・1席しか見られないのは今月だけのイレギュラーな措置なのか。それとも2時間見たければ金を払ってCSで見て下さいとTBSが方針を変更したのか、そこらへんは今のところ分かりませんが大いに気になるところです。

歌丸さん休演2014年05月20日 22:25

 落語ファンとしては「歌丸師匠」と記すべきなのでしょうが、落語をよく知らない人々にも圧倒的知名度と好感度をもつ師の場合「歌丸さん」と書いた方がしっくりきます。
 先週の土曜日、有楽町・朝日ホールへ赴き「朝日名人会」を鑑賞しました。トリは歌丸さんの予定だったのが休演で花緑さんが代演。歌丸さんが演じる予定だった「竹の水仙」を口演しました。
 報道によると歌丸さんはろっ骨骨折を伴う肺疾患で3月28日に入院。4月末に退院し、5月上席の新宿末広亭の高座で復帰。しかし6日には足に帯状疱疹(たいじょうほうしん)ができ再び休演。その後11日から15日までの浅草演芸ホールでの高座も休んでいます。帯状疱疹は体力が衰えた高齢者がなりやすい病気で、私は受験勉強に日夜励んでいた浪人生時代に若者としては珍しくこの病気にかかりました。
 歌丸さんの健康面で特に気にかかるのが呼吸器と腰です。笑点の大喜利での登場場面ではさっそうと歩く歌丸さんが見られますが実はかなり無理しているようで、普段歩くときは杖を使っているのはファンの間では知られた事です。
 西新宿・花伝舎で毎年秋に開かれる「芸協らくご祭り」で3年ほど前、祭りの余興で芸協の幹部が揃って歌舞伎の「白浪五人男」を演じた事がありました。傘を差しながら踏ん反りがえる有名なシーンがありますが、これで歌丸さんは腰を痛めてしまったようです。祭りが終わった午後4時頃、お付きの人とともに会場の裏手から去ってゆく歌丸さんの姿を私は見ましたが、腰を九十度曲げ杖をつきながら苦しそうに歩いていました。テレビでの元気な歌丸さんを見慣れていた私にはちょっとしたショックでした。
 テレビでの人気者のみならず、今や圓朝落語継承の第一人者である歌丸さんにはこれからも活躍して欲しいのですが、77歳という年齢を考えれば限界もあります。
 テレビの出演者なら代わりの人もありましょうが、落語芸術協会会長の代わりとなり寄席や落語会に一般の客をも引き付けるような存在が今の芸協にはありません。芸協の落語家の層の薄さはいかんともしがたい問題です。この問題に関してはこれ以後も記してゆきたいと思います。

志ん生居宅跡を訪ねる2014年05月25日 19:04

 昨日はとある落語会を2軒はしごしたのですが、少し早目に家を出て谷中の古今亭志ん生の居宅跡を訪ねることにしました。山手線に乗り日暮里駅で下車。駅の北側から千駄木駅に向かう道の中ほどにあるのが近年すっかり有名になってしまった谷中銀座で、志ん生の居宅跡はこの商店街から少し入った住宅街の中にあります。例によって事前に国会図書館の地図室で過去の住宅地図を調べ場所を特定しました。下の地図は昭和48年の谷中銀座付近です。(下写真をクリックすると大きな画像で見られます)

谷中銀座(S48)地図


 駅を出て西に3分ほど歩くと下り階段があり、ここから200mほどの長さの商店街が谷中銀座。昔ながらの風情の残る商店街としてテレビや雑誌でも頻繁に取り上げられ、今では休日には観光客で賑わいます。昔ながらの風情といえば30~40年ほど前にどこでも普通に見られた町の八百屋だの魚屋だの総菜屋だの雑貨屋だのが並ぶ町並みを期待しますが、昨今わんさと観光客の集まるようになってしまったこの谷中銀座はいつまで「何気ない日常の空間」を留めていられるのでしょうか。

谷中銀座


 まず訪ねるのは、商店街に差し掛かってすぐの左手にある「多満留」です。間口2間ほどのごく小さな小物屋で、店内に入ると志ん生の火焔太鼓の音が流れていました。ここでは志ん生、先代馬生、志ん朝の美濃部一家のグッズを販売しています。志ん生に似せた人形、志ん朝の絵柄の入った湯呑茶碗など興味はそそられるものの財布の札を減らす余裕はありません。かつての志ん生の自宅を訪ねにきた者ですと店主に挨拶して店を出ます。
 「多満留」の少し先の右側に「浜松屋」という下駄や雪駄を売ってている店があり、この店の脇の狭い路地を入ります。この路地は区の境で左側が台東区谷中、右側は荒川区西日暮里となります。

志ん生宅への路地


 100mほど歩き右に折れすぐのオレンジ色の屋根の2階建ての一軒家が志ん生の自宅のあった場所です。現在の表札の名はもちろん美濃部ではありません。門の脇のツツジの花は盛りを過ぎてやや色あせています。
志ん生宅跡


 この2軒先の向かい側が先代金原亭馬生の居宅跡でここも2階建ての住居となっています。志乃さんもここで育ち、目と鼻の先のおじいさんの家にも頻繁に通っていたのでしょう。

馬生宅跡


 先の昭和48年の住宅地図を見ると、かつての志ん生宅の西側に「世界湯」という銭湯があったことが分かります。病後の志ん生が弟子に負ぶられ通ったのがこの銭湯だったのでしょう。
 今回、志ん生のかつての居宅は簡単にわかりましたが、果たして本所業平橋のなめくじ長屋の場所は特定できるものだろうか、そんなことを考えながら千駄木の駅へと向かいました。