古今亭志ん生、八代目桂文楽、三遊亭圓生、古今亭志ん朝など過去の名人落語家の残された落語音源データを公開しています。 |
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本牧亭、上野を離れる ― 2015年05月30日 01:02
このブログでも何度か話題にしているよう、私は最近、講談を聴く機会が増え、ナマのものに限れば落語より講談を聴く回数が多くなっています。
さて、講談の定席といえば上野にあった「本牧亭」。本牧亭の名が最初に現れたのは1857(安政4)年だとのこと。そして上野鈴本演芸場のすぐそばの路地の左側にあった古い世代にはお馴染みの「本牧亭」が開かれたのは1948(昭和23)年。昭和25年より講談の定席となり、多くのファンに親しまれてきたものの、1990(平成2)年1月、惜しまれつつ閉場。下の画像は1960(昭和35)年の本牧亭付近の地図です。
その後も興行の形態を変えながら「本牧亭」の名は使われ続け、池之端、そして黒門町へと移っていきますが、2011(平成23)年、黒門町本牧亭は閉場。本牧亭は拠点となる場を失いました。
ですが「本牧亭」の名を守りたいという元のおかみさんの努力、そして熱心なファンに支えられ、「本牧亭」という名の付く講談の会が場所を借りながら行われてきます。場所は、元の本牧亭のすぐ向かいにある「とんかつ武蔵野」のいう店の2階。普段はパーティールームとして使われているスペースを毎月第2土曜と日曜、即席の高座を設え、「本牧亭講談会」として小規模ながらも会が開かれてきました。しかし、このとんかつ屋さんが改装をする事になり、この会も続けられなくなります。主催者は上野近辺で代わりの場所をいろいろ探しましたが見つけられず。結局、御茶ノ水に移転し、駅のすぐ近くの居酒屋のスペースを借りてこの会は継続することになります。こうして、「本牧亭」は長く親しんだ上野の地を離れることになりました。
人間国宝の一龍斎貞水先生の初高座もこの本牧亭でした。世の中には残るもの、消えるもの、いろいろありましょうが、残そうと努力なさっている方の姿をこれからも見つめ続けてゆきたいと思います。
↑上野・本牧亭のあった路地の現在
↑元の「本牧亭」があった場所の現在。
↑元の本牧亭のすぐ向かいにある「とんかつ武蔵野」。ここの2階を借りて、「本牧亭講談会」は開かれていた。
↑5月24日、上野での最後の「本牧亭講談会」が開かれた。
さて、講談の定席といえば上野にあった「本牧亭」。本牧亭の名が最初に現れたのは1857(安政4)年だとのこと。そして上野鈴本演芸場のすぐそばの路地の左側にあった古い世代にはお馴染みの「本牧亭」が開かれたのは1948(昭和23)年。昭和25年より講談の定席となり、多くのファンに親しまれてきたものの、1990(平成2)年1月、惜しまれつつ閉場。下の画像は1960(昭和35)年の本牧亭付近の地図です。
その後も興行の形態を変えながら「本牧亭」の名は使われ続け、池之端、そして黒門町へと移っていきますが、2011(平成23)年、黒門町本牧亭は閉場。本牧亭は拠点となる場を失いました。
ですが「本牧亭」の名を守りたいという元のおかみさんの努力、そして熱心なファンに支えられ、「本牧亭」という名の付く講談の会が場所を借りながら行われてきます。場所は、元の本牧亭のすぐ向かいにある「とんかつ武蔵野」のいう店の2階。普段はパーティールームとして使われているスペースを毎月第2土曜と日曜、即席の高座を設え、「本牧亭講談会」として小規模ながらも会が開かれてきました。しかし、このとんかつ屋さんが改装をする事になり、この会も続けられなくなります。主催者は上野近辺で代わりの場所をいろいろ探しましたが見つけられず。結局、御茶ノ水に移転し、駅のすぐ近くの居酒屋のスペースを借りてこの会は継続することになります。こうして、「本牧亭」は長く親しんだ上野の地を離れることになりました。
人間国宝の一龍斎貞水先生の初高座もこの本牧亭でした。世の中には残るもの、消えるもの、いろいろありましょうが、残そうと努力なさっている方の姿をこれからも見つめ続けてゆきたいと思います。
↑上野・本牧亭のあった路地の現在
↑元の「本牧亭」があった場所の現在。
↑元の本牧亭のすぐ向かいにある「とんかつ武蔵野」。ここの2階を借りて、「本牧亭講談会」は開かれていた。
↑5月24日、上野での最後の「本牧亭講談会」が開かれた。
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